これから、戦国武将「上杉謙信」について紹介していくよ!
上杉謙信の生涯
年表
西暦 | 年齢 | 出来事 |
1530年 | 1歳 | 越後国春日山城に生まれる |
1543年 | 14歳 | 元服して「景虎」と改名 |
1544年 | 15歳 | 「栃尾城の戦い」で初陣を飾る |
1548年 | 19歳 | 兄の長尾晴景から家督を継承 |
1551年 | 22歳 | 越後国を統一 |
1553年 | 24歳 | 「第一次川中島合戦」の開戦 |
1560年 | 31歳 | 「小田原城の戦い」 |
1561年 | 32歳 | 関東管領に就任・「第四次川中島合戦」 |
1576年 | 47歳 | 越中国を平定 |
1577年 | 48歳 | 能登国を平定・「手取川の戦い」 |
1578年 | 49歳 | 春日山城で病死 |
では、さっそく彼の生涯を追ってみよう!
1530年 出生
父は越後国(えちごのくに:現在の新潟県)守護代である「長尾為景(ながおためかげ)」、母は「虎御前/青岩院(とらごぜん/せいがんいん)」で、末子(四男)として生を受けました。1530年(享禄3年)の干支の庚寅(かのえとら/こういん)に因んで童名を「虎千代(とらちよ)」と名付けられました。
謙信の兄弟
腹違いの兄の「長尾晴景(ながおはるかげ)」、「長尾景康(ながおかげやす)」「長尾景房(ながおかげふさ)」、姉の「仙桃院(せんとういん)」がいました。
当時の越後国の情勢
当時の越後国は内乱が激しく、当時は下剋上の時代でもありました。父の為景は戦を繰り返し、当時の越後守護の「上杉房能(うえすぎふさよし)」を自害に追い込み、次いで当時の関東管領である「上杉顕定(うえすぎあきさだ)」を討ち取りました。また、次の守護に「上杉定実(うえすぎさださね)」を立てて、傀儡化して勢威を振るいましたが、越後国を平定するには至りませんでした。
1536年(天分5年)父の為景は諸将らと「春日山城(かすがやまじょう)」を攻略して城主となりました。そして同年8月、為景は守護代職を嫡男の晴景(虎千代の兄)に譲り、隠居しました。国内に内乱を抱える中、長尾晴景は守護代長尾氏の新たな当主として家督を継ぎ、虎千代は城下の長尾氏の菩提寺である林泉寺に入門しました。
晴景継承後の越後国
長尾氏は守護代として代々から守護である上杉氏に仕える家系でしたが、父の為景の代では武力を背景に国内を制圧していき、長尾氏が実質的に越後国の実権を握ってきました。しかし、家督を継いだ晴景は父の為景とは異なり、領内の国人と融和を図るなど穏健な政策をとっていきました。これが功を奏して、一時的には国内の争乱を鎮めることにある程度成功していました。
しかし、主君である越後国守護の上杉定実が陸奥国(むつのくに:現在の福島県伊達市)大名「伊達稙宗(だてたねむね)」の子を婿養子として迎え入れようとしたことが引き金となり国内は乱れ、再び内乱状態を招くこととなりました。これに対して晴景も対策を打つために奔走するも有効打とならず、さらに立て続けに反乱が起きた為に越後国内はさらに情勢が悪化してしまいました。また、晴景自身も病弱で統率力に欠けていたことも起因の一つとなりました。
1543年 元服・初陣
1543年(天文12年)8月に虎千代は元服して「長尾景虎(ながおかげとら)」と名乗りました。同年9月には晴景の要請を受けて、反乱鎮圧の為に「栃尾城(とちおじょう)」に入城しました。
翌年の1544年(天文13年)当時15歳の景虎に対して、若輩と軽んじた越後の豪族が謀反を起こして景虎が治める栃尾城へ攻めてきました。対する景虎は少数の城兵を二手に分けて、一隊を敵本陣の背後から急襲させました。混乱する敵軍の隙をついて、さらに城内から本体を突撃をさせて敵軍を壊滅させることに成功しました。
並外れた指揮官としての才能を見せた景虎は見事に謀反を鎮圧させて見せ、この「栃尾城の戦い(とちおじょうのたたかい)」で初陣を勝利で飾りました。
1548年 家督相続・越後国の統一
翌年の1545年(天文14年)10月、上杉家の老臣で「黒滝城(くろたきじょう)」主の「黒田秀忠(くろだひでただ)」が長尾氏に対して謀反を起こしました。秀忠は守護代の晴景の居城である春日山城にまで攻め込み、景虎の兄の長尾景康らを殺害した後、黒滝城に立て籠もりました。
景虎は、兄に代わって上杉定実から討伐を命じられ、総大将として軍の指揮を執りました。そして、「黒滝城の戦い(くろたきじょうのたたかい)」にて秀忠を降伏させました。
その後も景虎は反乱鎮圧に尽力し、ようやく国内を平定することに成功しました。この活躍により景虎は名声を上げましたが、今度はその力量を恐れた晴景や上田長尾氏の「長尾政景(ながおまさかげ)」が景虎と対立することになりました。
長尾政景には景虎の姉である仙桃院が嫁いでおり、姉も巻き込む形で兄弟間で対立し、国内は再び乱れました。これを心配した上杉定実は調停に入り、1548年(天文17年)当時19歳の景虎は晴景から守護代長尾家の家督を受け継ぐことになり、春日山城に入りました。
定実の死後は室町幕府第13代将軍の「足利義輝(あしかがよしてる)」から、越後国主としての地位を認められたことで、景虎は越後国の実権を握りました。これに対して景虎の家督相続に不満を持っていた政景は再度反乱を起こしますが、景虎によって鎮圧されました。政景の反乱鎮圧でようやく越後国の内乱は収まり、1551年(天文20年)景虎は22歳で越後国の統一を成し遂げることができました。
1553年 川中島合戦の開戦
1552年(天分21年)1月に関東管領(かんとうかんれい)の「上杉憲政(うえすぎのりまさ)」は相模国(さがみのくに:現在の神奈川県)の「北条氏康(ほうじょううじやす)」に上野国(こうずけのくに:現在の群馬県)を攻め入られて、景虎に助けを求めて越後国へ亡命してきました。景虎は憲政を保護し、氏康と敵対することになりました。そして、同年8月には関東に向けて出兵を行い、北条軍を上野国から追い出すことに成功しました。
同年8月、今度は甲斐国(かいのくに:現在の山梨県)の大名「武田晴信(たけだはるのぶ:後の武田信玄)」が隣国の信濃(現在の長野県)に侵攻し、信濃国守護の「小笠原長時(おがさわらながとき)」が景虎に助けを求めてきた為、これを迎え入れて保護しました。
翌年1553年(天分22年)4月には、北信濃の領主である「村上義清(むらかみよしきよ)」が晴信との抗争に敗れ、越後国に逃れた義清は景虎に援軍を要請しました。景虎から援軍を与えられた義清は旧領奪還の為に北信濃へ出陣し、「更科八幡の戦い(さらしなはちまんのたたかい)」で武田軍を退けることに成功しました。
しかし、武田軍を一度は退けた義清でしたが、同年7月には武田軍が再び北信濃へ侵攻を開始した為、義清は再び越後国へ逃亡することになりました。これを受けた景虎は晴信討伐を遂に決意し、自ら軍を率いて北信濃へと出陣しました。
北信濃に侵攻した景虎率いる長尾軍とそれを待ち構えていた晴信率いる武田軍は川中島にて両者は対峙し、この戦いはのちに「川中島合戦(かわなかじまかっせん)」と呼ばれるようになりました。戦闘は5回にも及び、約12年間も続く長期の対戦となりました。
第一次川中島合戦(布施の戦い)
1553年(天分22年)最初の決戦である「布施の戦い(ふせのたたかい)」では、まず景虎は武田軍の先鋒を撃破しました。その後、景虎は領内へ軍をさらに進めて武田軍が占拠する居城を次々と攻略していきました。
これに対して晴信は領内の塩田城に籠り、景虎との決戦を避けました。これにより順調に勝ち進んでいた景虎でしたが、晴信を決戦に持ち込めないまま経過し、9月20日には越後へ軍を引き上げていきました。晴信も10月17日に甲斐へと帰還しました。両軍共に撤退した為、決定的な勝敗はつきませんでしたが、互いの力量を探り合う小競り合いとなりました。
戦後直後、景虎は上洛して後奈良天皇に拝謁して「私的治罰の綸旨」を賜りました。これにより、景虎は「官軍」として敵対する者は「賊軍」(朝廷の敵)として今後武田軍を討つ大義名分を得ることができました。
第二次川中島合戦(犀川の戦い)
二回目となる決戦は、翌年の1554年(天分23年)景虎の家臣である「北条高広(きたじょうたかひろ)」が武田氏と内通して挙兵を起こしたことで勃発しました。1555年(天分24年)景虎は反乱鎮圧の為に自ら出陣して、高広の拠点である北条城(きたじょうじょう)を包囲したのち、攻め落として落城させました。高広は降伏しますが、景虎は寛大であった為上杉氏への帰参を許されました。(北条城の戦い:きたじょうじょうのたたかい)
そして同年4月に景虎は信濃国へ出陣し、7月には晴信も到着して両者共に川中島の犀川(さいがわ)を挟んで対峙しました。この決戦は「犀川の戦い(さいがわのたたかい:第二次川中島合戦)」と言われ、両軍の対陣は約5か月間にも及びました。景虎は河を渡って何とか攻勢をしかけようとするも小競り合いに発展していき、最終的に決着はつきませんでした。
同年10月15日に駿河国(現在の静岡県の中部)の大名「今川義元(いまがわよしもと)」の仲介で和睦が成立し、両軍は撤退していきました。景虎は和睦の条件として、武田軍が奪った所領を元の領主に返すことを晴信に認めさせました。これにより景虎は勢力を北信濃まで広げることに成功したのでした。しかし同じ頃、晴信は信濃国の木曽にまで勢力を広げて南信濃を支配下に置きました。
第三次川中島合戦(上野原の戦い)
晴信は和睦後も調略を用いて北信濃の国衆を味方に引き入れて攻略したり、景虎の家臣と通じて反乱を起こさせるなど景虎を苦しめました。そして1557年(弘治3年)2月、豪雪の越後国で景虎が身動きできない時期を狙い、晴信は盟約を破って北信濃へ侵攻して長尾方の葛山城を攻略しました。
その後も武田軍はさらに進軍していき、長尾方の居城を次々と攻め落としていきました。これに対して景虎は激怒し、雪解けを待って4月に再び川中島へ出陣しました。景虎は破竹の勢いで武田軍に奪われていた北信濃の城を次々と攻め落とし、5月にはさらに武田領の信濃中部へと深く侵攻していきました。
しかし景虎の強さを知る晴信は対戦を避け、これにより景虎も軍を引き揚げました。そして7月に再び武田軍は北信濃へ侵攻し、8月下旬には上野原において両軍は抗戦し、三度目の対決となる「上野原の戦い(うえのはらのたたかい:第三次川中島合戦)」が勃発しました。
しかし全面衝突までとはならず、小競り合い程度で終わり、またもや決着は付きませんでした。景虎は9月に越後へ引き揚げ、晴信も10月に甲斐に引き揚げました。そして、1559年(永禄2年)2月に第三次川中島合戦後、晴信は出家して名を「信玄(しんげん)」と号し、以降「武田信玄(たけだしんげん)」と名乗りました。
1560年 関東遠征・武田信玄との死闘
1560年(永禄3年)5月、「桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)」にて今川義元が戦死したことで「甲相駿三国同盟(こうそうすんさんこくどうめい)」の一角である今川氏が崩れました。この機会に乗じて景虎は氏康の討伐を決断し、景虎は憲政を伴い約8,000の兵を率いて関東への侵攻を開始しました。
10月初旬、三国峠を越えた景虎は最初に上野国の「沼田沼田城(ぬまたじょう)」を攻略し、その後に「厩橋城(まやばしじょう)」、「羽生城(はにゅうじょう)」と言った北条方の諸城を次々と攻略していき、徐々に北条軍を追い詰めていきました。
翌年には武蔵国(現在の東京都、埼玉県、神奈川県の北東部)へ進軍し、「川越城(かわごえじょう)」を始めとした各城を次々に配下に治めていきました。また、さらには相模国まで侵攻して2月には鎌倉を落としました。勢いに乗った景虎は北条氏の本拠地である「小田原城(おだわらじょう)」を目指して進軍していきました。
小田原城包囲(小田原城の戦い)
一方の北条氏康は快進撃を続ける景虎に対して野戦は不利と判断し、北条氏の本城である小田原城に立てこもり、籠城戦へと持ち込むことを決意しました。景虎は関東遠征の道中、北関東諸将を味方につけていき、遠征軍は総勢約10万もの大軍となりました。同年3月、景虎は大軍を率いて小田原城を含めた諸城を包囲して攻撃を開始しました。のちの「小田原城の戦い(おだわらじょうのたたかい)」が勃発しました。
小田原城の守りは固く、攻め落とすのは容易ではありませんでした。その堅牢さはのちに難攻不落、無敵の城と称されるほどでした。最初は優勢だった景虎でしたが、長期にわたる布陣で遠征軍の諸将から不満が出始めました。連合軍は一枚岩では無く、参戦武将の離脱が相次いで起きたことで、徐々に軍を維持できなくなりました。
さらに氏康の援軍要請により信玄が北信濃に再び侵攻し、川中島に新しく「海津城(かいづじょう)」を築城しました。これを拠点として晴信は北信濃に勢力圏を拡大させました。これにより景虎は背後への牽制を余儀なくされ、戦況は膠着状態へと一転しました。約1か月に及ぶ包囲の後、景虎は鎌倉へと撤退していきました。
関東管領に就任
1561年(永禄4年)長尾景虎は上杉憲政の要請により鎌倉の鶴岡八幡宮にて、山内上杉家の家督と「関東管領職」を相続して名前を「上杉政虎(うえすぎまさとら)」と改名しました。
「関東管領」とは室町幕府が関東を統治させる為に鎌倉に置いた役職の一つであり、その上の役職である「鎌倉公方(かまくらくぼう)」の補佐役にあたりました。この役職は1363年(貞治2年)以降は代々上杉氏が世襲していましたが、関東における上杉氏の勢力は徐々に衰退していき、景虎が継承した時にはすでに実質的に機能していませんでした。景虎が継いだのを最後にこの役職の名称は消滅しました。
第四次川中島合戦(八幡原の戦い)
鎌倉から帰国後、政虎は同年8月に再び川中島へ出陣しました。政虎は1万3,000の兵を率いて海津城とは川を挟んで向かいに位置する「妻女山(さいじょうざん)」にて布陣しました。対する信玄は2万の大軍を率いて海津城に入り、政虎と対峙しました。数では優勢の武田軍ですが、上杉軍を率いる政虎の動向を警戒していた信玄は慎重でした。その後も膠着状態は続き、士気の低下を心配した武田方の重臣達は政虎との直接対決を進言しました。家臣らの進言により、信玄は政虎との決戦を遂に決心しました。
同年9月、武田軍は兵を二手に分けました。信玄率いる本隊8,000の兵が平野である「八幡原(はちまんばら)」へ移動し、「鶴翼の陣(かくよくのじん)」で布陣しました。
鶴翼の陣とは、鶴が翼を広げたように左右に長く広げた部隊を配置する陣形で、それが三日月形に見えることからこの名が付きました。この敵全体を包み込む陣形は防御に非常に適した陣とされていました。
一方の別動隊1万2,000の兵は妻女山へ向かわせました。この作戦は武田方の軍師として知られる「山本勘助(やまもとかんすけ)」の提案によるものでした。山に布陣する上杉軍を別動隊で攻撃させて平野へまで追い込み、そこを本隊が待ち伏せして別動隊と挟み撃ちで殲滅するといった戦法でした。この戦法は木をつついて驚いた虫を食べる「啄木鳥(きつつき)」に似ていることから、「啄木鳥戦法(ききつきせんぽう)」と名付けられました。
一方、妻女山から静かに武田軍の動向を観察していた政虎は海津城からの炊煙がいつもより長いことに気づき、瞬時に武田軍が攻勢をしかけてくる事を察知しました。政虎は武田軍の裏をかく為、夜陰に乗じてに密かに妻女山を下山し、八幡原に向かいそこに布陣しました。
翌朝、深い霧が晴れた先の視界にいるはずのない上杉軍が布陣して待ち構えていました。目前の光景に信玄率いる武田軍は大きく動揺しました。その隙に政虎は「車懸りの陣(くるまざかりのじん)」で武田軍に襲いかかりました。
「車懸りの陣」とは、名前の通り大将の周りを各部隊で円陣を組み、まるで車輪が回転するかの様に入れ代わりで攻撃を仕掛けては離脱し、後ろに控えていた余力ある兵が攻撃を仕掛けていくといった波状攻撃を特徴とした陣形でした。
完全に意表を突かれた武田軍は応戦するも上杉軍の凄まじい猛攻を止められず、防戦一方となりました。勢いに乗った上杉軍は、軍師の山本勘助を始め、副将の「武田信繁(たけだのぶしげ:信玄の弟)」など武田方の名だたる武将らを次々と討ち取っていき、さらには信玄自身にも負傷させました。この攻撃により武田軍は大打撃を受け、武田本陣を壊滅状態寸前にまで追い詰めました。
しかし、政虎に出し抜かれてもぬけの殻となった妻女山に攻め込んだ武田軍別動隊が事態に気づき、八幡原に急行してきました。最初は優勢だった上杉軍でしたが、別動隊の到着により上杉軍は本隊と挟み撃ちに合い、今度は劣勢へと傾きました。形勢不利と判断した政虎は兵を引き揚げ、越後国へと帰還しました。信玄も追撃を止めて兵を引き揚げた所で合戦は終わりました。
大決戦となった4回目となる交戦は「八幡原の戦い(はちまんばらのたたかい)」と呼ばれ、5回にわたる川中島合戦の中で最も激戦となりました。この合戦での死者は上杉軍約3,000、武田軍約4,000と伝えられ、互いに多数の死者を出しました。
「甲陽軍鑑(こうようぐんかん:武田軍の戦略・戦術を記録した軍学書)」には「前半は上杉の勝ち、後半は武田軍の勝ち」と記されており、また合戦後の書状でも双方が勝利を主張している為、明確な勝敗はつきませんでした。しかし、武田軍にとっては有力な家臣を多く失う戦となりました。
1561年 北条氏康の反撃・関東諸将との対立
第四次川中島合戦(八幡原の戦い)以降、武田氏との抗争は収束していき、信玄は上野国へ侵攻開始していきました。同時期、武田氏と協調して北条氏が反撃を開始して、政虎が奪った「武蔵松山城(むさしまつやまじょう)」を奪還すべく攻撃を仕掛けてきました。
これを受けた政虎は、1561年(永禄4年)11月に関東へ出陣して武蔵国北部で氏康率いる北条軍と戦いました。しかし、先の川中島合戦で甚大な損害を受けたことが響き、「生野山の戦い(なまのやまのたたかい)」で上杉軍は敗退してしまいました。
その後、北条軍による松山城攻略を防ぐことには成功したものの「佐野昌綱(さのまさつな)」を始めとした武蔵国内の諸将の離反を招き、さらには同族である「上杉憲盛(うえすぎのりもり)」までもが北条方に降っていくことになりました。
唐沢山城の戦い
政虎は北条方に与した佐野昌綱を再び臣従させる為、昌綱が拠点とする下野国(しもつけのくに:現在の栃木県)の「唐沢山城(からさわやまじょう)」に攻撃を開始しました。唐沢山城は上杉軍が関東出兵する際に重要拠点となる為、政虎としては何としても支配下に収めたい城でした。
しかし、「関東一の山城」と称された難攻不落の城を前に攻略は難航しました。1560年(永禄3年)から始まった「唐沢山城の戦い(からさわやまじょうのたたかい)」はのちに1570年(元亀元年)まで続き、城の支配権を巡って昌綱と10回にも及ぶ攻防戦を繰り広げました。その度に佐野昌綱は政虎に対して恭順・寝返りを繰り返しました。
政虎から輝虎へ
1561年(永禄4年)12月、政虎は将軍足利義輝の一字を賜り「輝虎(てるとら)」と改名し、以降「上杉輝虎(うえすぎてるとら)」と名乗りました。
越中出兵・神保長職の討伐
翌年の1562年(永禄5年)7月、輝虎は越中国(えっちゅうのくに:現在の富山県)へ出陣し、越中守護代の「神保長職(じんぼうながもと)」から圧迫を受けている上杉方の「椎名康胤(しいなやすたね)」の救援に向かいました。輝虎は長職を降伏させますが、越後国へ戻ると再び長職が挙兵した為、同年9月に再び越中国へ侵攻して長職を降伏させました。以降も長職は反旗を翻し、その度に輝虎は越中出兵を繰り返しました。
越中出兵となった背景には、元々神保氏と椎名氏が長年にわたり越中国の覇権を巡って争ってきた関係にありました。康胤が上杉氏を後ろ盾にしたことに対抗して長職は輝虎の宿敵である武田信玄と同盟を結び、さらには「越中一向一揆(えっちゅういっこういっき)」も味方に付けました。これにより、1568年(永禄11年)まで越中国の内乱は武田方の神保氏と上杉方の椎名氏による言わば武田・上杉の代理戦争が続くことになりました。
房越同盟
1562年(永禄5年)7月、輝虎が越中出兵で関東を空けている間に、上杉方の武蔵松山城が再び北条軍の攻撃にさらされました。また武田信玄からの援軍を加え、5万人を超える北条・武田連合軍に対し、松山城を守る上杉軍の兵は少数で劣勢に立たされていました。既に越後国から関東へ行く上越国境の「三国峠(みくにとうげ:現在の新潟県と群馬県の県境に位置する峠)」は雪に閉ざされていましたが、輝虎は松山城を救援の為、峠越えを強行し、同年12月には上野国の「沼田城(ぬまたじょう)」に入りました。輝虎は急ぎ兵を募って救援に向かったものの、1563年(永禄6年)2月、間に合わず松山城は落城してしまいました。
しかし、輝虎はすぐに反撃に出て武蔵国や下野国、下総国(しもうさのくに:現在の千葉県北部と茨城県南西部)、常陸国(ひたちのくに:現在の茨城県の北東部)へと攻め込み、反上杉方の関東諸城を次々と攻略していきました。
当時の関東の戦況は武田氏の上野方面への侵攻、北条氏の北関東への勢力拡大、それらを抑えるべく上杉軍の関東侵攻による勢力争いが関東各地で繰り広げられていました。こうした関東情勢により、関東の諸将は輝虎の関東遠征の度に上杉方に恭順・降伏し、輝虎が越後国へ引き揚げては北条方へ寝返るというサイクルを繰り返していきました。
輝虎は武田・北条氏の勢力に対抗する為、長年にわたって北条氏と敵対関係にあった安房国(あわのくに:現在の千葉県南部)の当時の大名「里見義尭(さとみよしたか)」と軍事同盟を結びました。「安房国」と「越後国」の両国の名の一部を取って合わせて「房越同盟(ぼうえつどうめい)」とも呼ばれました。
第5次川中島合戦(塩崎の対陣)
その後も関東へ連年遠征して北条軍と戦っていた輝虎でしたが、その背後を北条氏と同盟関係にある武田氏が常に脅かしていました。
1564年(永禄7年)6月24日、信玄の打倒に燃える輝虎は、現在の新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦にある「弥彦神社(やひこじんじゃ)」に「武田晴信悪行之事」と題する願文を奉納し、必ず退治することを誓いました。そして同年、飛騨国(岐阜県北部)の国衆同士の争いに武田氏と上杉氏の双方がそれぞれに支援して介入したことで再び対立し、さらに同年8月には信玄の飛騨国侵入を防ぐ為、輝虎は五回目となる川中島へ出陣しました。
これに対して信玄も川中島の重要拠点となる「塩崎城(しおざきじょう)」まで進出しますが、陣を塩崎城に置いて輝虎との決戦を避けました。川中島合戦の最終戦となった「塩崎の対陣(しおざきのたいじん)」ですが、一度も交戦することなく60日間に及ぶ対峙の末、10月に両軍は撤退していきました。以降、輝虎と信玄が川中島で再び相見えることなく、長期にわたる北信濃を巡っての勢力争いはここで幕を閉じました。
この合戦で、信玄の使命であった信濃国統一は頓挫し、さらに信玄の越後国侵攻を阻止することに成功しました。一方で領土的には信濃の北辺を掌握したのみに至り、村上義清を始めとした北信濃の諸将らの旧領を奪還させることはできませんでした。
第一次関宿合戦
川中島合戦以降、信玄は東海道、美濃国(現在の岐阜県の南部)、上野国方面へ勢力を拡大していき、対する輝虎は関東遠征に力を注ぎました。
1565年(永禄8年)3月に氏康率いる北条軍が「関宿城(せきやどじょう)」に攻撃してきました。関宿城は関東統治に欠かせない重要な拠点であり、これを受けた輝虎は救援のため下総国へ侵攻し、常陸国の大名「佐竹義重(さたけよししげ)」からも援軍が送られました。これに対し、氏康は攻城を中断して輝虎と戦わずして撤退していきました。
この戦いは「関宿合戦(せきやどがっせん)」と言われ、以降も三回にわたって城の支配権を巡って北条軍と争いました。
臼井城の戦い
1566年(永禄9年)輝虎は下総国に侵攻し、同年3月20日に北条氏に従う千葉氏の拠点である「臼井城(うすいじょう)」を攻撃しました。戦局当初は上杉軍が優勢で落城寸前に迫る勢いを見せました。
しかし、籠城方の健闘により撃退され、3月24日には上杉軍の敗北が決定的となりました。この「臼井城の戦い(うすいじょうのたたかい)」により、上杉軍は数千人にもの死傷者を出すこととなり、翌月の4月半ばには撤退していきました。
関東の上杉方諸将の離反
先の臼井城の戦いで敗退したことで、関東各地にいる上杉方の諸将が次々と離反して北条氏に与していきました。さらに武田軍が上野国に侵攻を開始してから西上野全域にまで勢力を拡大していき、関東において輝虎は北条氏と武田氏の両者と対峙する状況に陥りました。輝虎は守勢に回り、今度は関東での勢力拡大を目指す佐竹氏とも対立することとなりました。
1567年(永禄10年)には再び背いた佐野昌綱を降す為に再び唐沢山城に攻撃をしかけました。一度は撃退されるも再度攻め寄せ、同年3月に降伏させました。しかし、同年に今度は家臣の北条高広が北条氏と通じて再び謀反を起こしました。
高広には上杉氏の関東における最重要拠点となる上野国の「厩橋城/前橋城(まやばしじょう/まえばしじょう:現在の群馬県前橋市)」の城代を任せていました。この事件で、輝虎の関東管領としての権威が失墜し兼ねない事態となりました。高広の離反により一時的に周辺は北条氏の勢力圏となりましたが、同年4月に輝虎は高広を破り、厩橋城を奪還しました。
後に輝虎は高広を許して上杉氏に再び帰参して仕えました。上野における上杉方の拠点を再び手中にした輝虎は劣勢の挽回を図り、その後も関東各地を転戦するも上杉氏の関東における領土は東上野にとどまりました。
1568年 越中国への進出
1568年(永禄11年)3月、上杉方に付いていた越中国の椎名康胤が武田信玄と通じて反旗を翻し、越中一向一揆と手を結びました。これを受けて輝虎は越中国に侵攻し、一向一揆と戦うも決着は付きませんでした(放生津の戦い:ほうじょうづのたたかい)。同年、再び輝虎は大軍を率いて離反した康胤を討つべく越中国へ侵攻し、「守山城(もりやまじょう)」に攻撃を仕掛けました。
上杉家重臣の反乱
しかし、同年の5月にまたしても信玄の調略により、今度は上杉家重臣の「本庄繁長(ほんじょうしげなが)」が謀反を起こしました。これに驚いた輝虎は攻城を中止して即座に陣を引き払い、越後へと帰還しました。
反乱を鎮めるため輝虎はまず、繁長と手を組んでいた出羽国(現在の山形県)の大名「大宝寺義増(だいほうじよします)」に対して軍を進めて降伏させて、繁長を孤立させました。その上で同年11月に繁長の居城である「本庄城(ほんじょうじょう)」を攻撃をして謀反を鎮圧しました。(本庄繁長の乱:ほんじょうまさしげのらん)
翌年の1569年(永禄12年)、陸奥国(現在の福島県会津地方)の大名「蘆名盛氏(あしなもりうじ)」と隣接する(現在の山形県米沢市)大名「伊達輝宗(だててるむね:稙宗の孫)」の両名より仲介を受け、繁長から自身の息子を人質として差し出させることで、繁長の帰参を許しました。また繁長と手を結んでいた大宝寺義増が上杉氏に臣従したことで、出羽国の庄内地方を手中に収めました。
松倉城の戦い
同年8月、輝虎は再び越中国に侵攻し、康胤が立て籠る「松倉城(まつくらじょう)」を百日間にわたって攻撃しますが、「越中三大山城(えっちゅうさんだいやまじろ)」の一つに数えられる名城の守りは堅く、攻略は難航を極めました。(松倉城の戦い:まつくらじょうのたたかい)
また信玄の要請を受けて康胤を支援していた越中一向一揆の抵抗にも悩まされた上、さらに武田軍が上野国に侵攻したことで、対応に追われる形となった輝虎は攻城途中で越後への帰国を余儀なくされました。上杉氏主力の撤退により、椎名康胤と越中一向一揆連合軍は勢いづき、上杉方の「富山城(とやまじょう)」が奪われることなりました。
1569年 北条氏康との同盟
1568年(永禄11年)12月、甲斐の武田信玄が駿河国へ侵攻を開始しました。義元の死後に家督を継いだ「今川氏真(いまがわうじざね:義元の嫡男)」はこれに対抗して、迎撃するも敗走し、本拠地である駿府(すんぷ:現在の静岡県中部)を占領されました。
これに激怒した相模の北条氏康は信玄との同盟を破棄して武田氏に敵対しました。これにより、甲相駿三国同盟の関係が完全に崩壊し、関東情勢はさらに混沌を極めました。北条氏にとっては東に里見氏、北に上杉氏、西に武田氏と、三方向に敵を抱える苦しい情勢となりました。
越相同盟
翌年の1569年(永禄12年)1月、氏康は輝虎に対して和睦を提案しました。これに対して輝虎は当初、この和睦に積極的ではありませんでした。しかし度重なる関東遠征で国内の不満が高まってきており、また上杉方の関宿城が北条軍の攻撃にさらされ、「第二次関宿合戦」が勃発していました。これを救援すべく輝虎は氏康の和睦を受け入れ、同年6月に「越相同盟(えっそうどうめい)」が成立しました。
これは武田氏への牽制の意図と北条氏の関東侵攻を止める為の軍事同盟となりました。これにより輝虎は、関東諸将との戦いをひとまず中断し、共通の敵となった武田氏との戦いに集中することとなりました。
しかし、この同盟で上杉方の関東諸将は輝虎に対して不信感を抱くこととなりました。また当時、輝虎と同盟を結んでいた安房国の里見氏からすれば、敵対していた北条氏との同盟は裏切り行為そのものでした。
義尭から家督を継いだ「里見義弘(さとみよしひろ:義尭の嫡男)」は輝虎との同盟を破棄し、また越相同盟に対抗して信玄との間に軍事同盟を結び、同年8月に「甲房同盟(こうぼうどうめい)」が成立しました。
「輝虎」から「謙信」へ
4月、氏康は自身の息子である「氏秀(うじひで:氏康の七男)」を輝虎の養子として越後に送りました。輝虎はこれを迎え入れて氏秀を厚遇し、さらに自身の初名である「景虎」の名を与えました。氏秀は「景虎」と改名し、後に「上杉景虎(うえすぎかげとら)」と名乗りました。
また、輝虎のもう一人の養子である「長尾顕景(ながおあきかげ)」は後の「上杉景勝(うえすぎかげかつ)」であり、景虎とは義兄弟にあたりました。また顕景の妹は景虎の元に嫁いでいました。顕景は上田長尾氏の長尾政景と輝虎の姉である仙桃院との間の子で輝虎の甥にあたりました。しかし、1564年(永禄7年)父である政景が溺死した為、叔父である輝虎の元に養子に入ることになりました。
1570年(元亀元年)12月、輝虎は出家して「謙信(けんしん)」と号して「上杉謙信(うえすぎけんしん)」を名乗りました。
1571年 越中一向一揆・北条氏政との対立
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1571年(元亀2年)2月、謙信は2万8,000の大軍を率いて再び越中国へ侵攻し、数年にわたり苦しめた松倉城を落城させました。
その後も椎名康胤と越中一向一揆から激しい抵抗を受けるも富山城を始めとした多数の城を次々と攻略していき、越中の西部まで破竹の勢いで進撃し、圧倒していきました。徐々に追いつめられていく康胤でしたが、武田信玄が再び上野や関東・東海地方に侵攻してきたことにより、謙信は越後へ撤退していきました。これにより、康胤はまたもや息を吹き返すことになりました。
その後も幾度となく富山城を奪い合うことになり、越中一向一揆との戦いも熾烈を極めることになりました。
氏康の死・同盟破棄
同年10月、関東の覇権を長年争った北条氏康が死去しました。翌年の1572年(元亀3年)1月、北条氏の後を継いだ「北条氏政(ほうじょううじまさ)」は謙信との同盟を破棄し、信玄と再び和睦して「甲相同盟(こうそうどうめい)」を結びました。これにより謙信は再び北条氏と敵対することになりました。
第一次利根川の対陣
同年1月、謙信は上野国に侵攻して、利根川を挟んで厩橋城の対岸に位置する武田方の「石倉城(いしくらじょう)」を攻略しました。その後に押し寄せた武田・北条両軍と利根川を挟んで両軍は対峙しました。以降、「利根川の対陣(とねがわのたいじん)」と呼ばれたこの戦いは二回にわたり行われました。
武田氏の策略
また同年4月、信玄は上洛する上で背後の敵である謙信を牽制する為、一向一揆を組織する「石山本願寺(いしやまほんがんじ)」の「顕如(けんにょ)」にあて、越中一向一揆に謙信に対しての軍事行動を要請しました。また、信玄の後継者である「武田勝頼(たけだかつより:信玄の四男)」も北陸方面の一向一揆の主将である「杉浦玄任(すぎうらげんにん)」に加賀国(かがのくに:現在の石川県南半部)と越中国の一向一揆が協力して謙信に対抗するよう要請していました。
越中一向一揆・加賀一向一揆の合流
武田氏の要請を受け、1572年(元亀3年)5月、顕如より総大将を任命された杉浦玄任率いる加賀一向一揆が挙兵し、これに呼応して越中の一向一揆の拠点である「勝興寺(しょうこうじ)」・「端泉寺(ずいせんじ)」が一斉に蜂起しました。さらに椎名康胤を始めとした越中の諸将が一揆勢の味方に付き、双方の一向宗も合流して連合軍となった兵力は3万を超える大軍に膨れ上がりました。
同年5月24日、上杉方の前線基地である「日宮城(ひのみやじょう)」が一揆勢から猛攻を受けました。しかし、謙信は上野と関東での武田・北条氏との対立で動けず、越中へ軍を派遣しました。同年6月15日、上杉方諸将率いる上杉軍は日宮城の救援に向かうべく西へ進み、神通川を越え五服山にて一揆勢の大軍と衝突しました。
この「五福山の戦い(ごふくやまのたたかい)」と呼ばれる戦いで上杉軍は奮戦するも一揆勢の猛攻を前に大敗しました。援軍の敗退で孤立した日宮城はその日の内に降伏して開城し、これに勢いづいた一揆勢は神通川西岸の「白鳥城(しらとりじょう)」、東岸の富山城など上杉方の諸城を次々と陥落させました。
その後も富山城を拠点とした一揆勢は快進撃を続け、越中の西部から中部にまで勢力を拡大させていきました。苦戦を強いられた上杉軍は徐々に追いつめられ、日宮城に代わって上杉方の前線基地となった越中中部の拠点である「新庄城(しんじょうじょう)」も陥落寸前の危機に迫りました。越中での戦況が芳しくないことを受け、同年8月6日に謙信は越中への出陣を決意し、主戦場を関東から越中へ移すことになりました。
上杉謙信の出陣
謙信は、7月に関東・上野に攻め入った北条軍に対して養子の長尾顕景率いる上田衆(上田長尾氏の軍勢)を派遣し対処し、信濃口には武田軍の侵入に備えて守備隊を配置しました。
そして同年8月10日、万全の態勢で謙信は自ら約1万の上杉軍本隊を率いて越中へ出陣しました。18日には新庄の山の根に着陣し、新庄城に布陣しました。謙信は新庄城と対峙した位置にある富山城攻略に向けて、富山城周辺数か所に向城(むかいじろ:敵の城を攻める時にそれと相対して築く城)を築城して一揆勢に対して包囲態勢を整えていきました。
また劣勢だった上杉軍でしたが、謙信率いる主力本隊と合流したことで大軍となり、兵力でも一揆軍に対抗できるようになりました。これにより上杉軍は、富山城に布陣して新庄城を攻め立てる杉浦玄任率いる一揆勢に対し、徐々に劣勢を挽回し始めていくことになりました。
しかし敵方の一揆勢も大軍であり、一向宗を信仰する死を恐れぬ団結力強固な集団でした。また謙信が最も警戒したのが、大量の鉄砲を配備した強力な鉄砲隊の存在でした。謙信は後発部隊に対して一揆勢の鉄砲に注意するよう促しており、新庄城での攻防は一進一退となりました。
同年8月20日、謙信の着陣に対抗して、玄任は加賀方面の一向一揆首領に向けてさらなる派兵を要請しました。また瑞泉寺からの書状から、同年8月31日の夜間に銃撃戦があったことが伝わっており、戦闘の激しさを物語っていました。
尻垂坂の戦い・信長との同盟
同年9月に入った頃、新庄城と富山城の間の「尻垂坂(しりたれさか)」で両軍は激突し、謙信率いる上杉軍は越中・加賀一向一揆連合を破りました。「尻垂坂の戦い(しりたれさかのたたかい)」と呼ばれたこの戦いは上杉軍の圧勝で終わり、9月17日未明には富山城の一揆勢は日宮城方面に撤退していきました。
また、上杉軍は神通川を越えて西へ進軍し、翌日の18日には「滝山城(たきやまじょう)」にも攻撃を開始し、年末にこれを制圧しました。その後も周辺の一揆方拠点を次々と攻略していき、10月1日にはついに富山城を落城させました。この尻垂坂の戦い以降、北陸の一向一揆は勢力は弱体化していきました。
翌月の11月20日、大規模に動員した武田信玄と交戦状態に入った「美濃岐阜城(みのぎふじょう:現在の岐阜県の南部)」城主の「織田信長(おだのぶなが)」からの申し出を受けいれ、「濃越同盟(のうえつどうめい)」を締結しました。
翌年1573年(元亀4年)正月、一向一揆方からの和平の提案を受け入れる形で、謙信は和議を結びました。これにより、上杉軍に再び松倉城を攻囲されていた椎名康胤は長尾顕景を介して謙信に再び許しを請い、松倉城を降伏して開城しました。
好敵手信玄の死・越中国の制圧
富山城を押さえた後、謙信は越後へと引き揚げていきますが、その帰路の途中で武田方の策略により再び反旗を翻した康胤と一揆勢は上杉方から富山城を奪い返し、再び占領しました。これを受けた謙信は即座に軍を引き返し、富山城を攻め落として奪還し、康胤を再び降伏させました。一揆勢は神通川を渡ってそのまま敗走していきました。この戦いで神通川より東は、完全に謙信の支配下となりました。
同年4月、謙信の宿敵だった武田信玄が病死しました。この信玄の死亡により、北陸地方への武田氏の影響力は下がっていくことになりました。
同年7月から8月にかけて、謙信は再度越中へ出陣し、「増山城(ますやまじょう)」、守山城など諸城を次々と攻略し、椎名康胤や越中一向一揆を始めとする反上杉派の敵対勢力を撃破していきました。さらに上洛への道を開く為に加賀国まで足を伸ばし、一向一揆が立て籠もる加賀・越中国境近くの「朝日山城(あさひやまじょう)」にも攻撃を仕掛けました。これにより、謙信は越中の過半までを制圧することに成功しました。
これ以降、謙信は関東の北条氏政の動向を牽制しつつ、引き続き加賀・能登へと西に進軍して京への上洛を目指していくことになりました。
北条氏政との戦い
1573年(天正元年)8月、謙信が越中朝日山城を攻撃していた時、北条氏政が上野国に侵攻してきました。上洛を目指す謙信にとって主戦場は既に関東でなく越中国でしたが、後顧の憂いを無くす為、1574年(天正2年)、8,000の兵を率いて関東に出陣し上野国の金山城(かなやまじょう)を攻撃しました。さらに同年3月には北条方の諸城を立て続けに攻め落としていき、戦果を上げていました。しかし「関東七名城(かんとうしちめいじょう)」の一つに数えられる要害堅固な金山城を陥落させるまでには至りませんでした。後に、この戦いは「金山城の戦い(かなやまじょうのたたかい)」と呼ばれました。
さらに武蔵における上杉方最後の拠点である「羽生城(はにゅうじょう)」を救援するべく同年4月、謙信率いる上杉軍は氏政率いる北条軍と再び利根川を挟んで相対して対峙しました。(第二次利根川の対陣)しかし、増水していた利根川を渡ることは出来ず、また船による兵糧や物資の支援も北条方の工作により失敗に終わり、同年5月に越後国へ帰国しました。
同年10月、謙信は下総国関根城と羽生城を救援すべく再び関東に出陣しました。上杉軍は武蔵国に攻め入り、後方攪乱を狙って北条方の諸城の領内に次々と火を放ち、北条軍を牽していました。この頃、越中平定に集中していた謙信でしたが、救援要請が届くと転じて関東に出陣していました。
しかし、佐竹氏を始めとした関東諸将が救援軍を出さなかった為、北条の大軍に対して攻撃を仕掛けるまでは出来ませんでした。これにより翌月の11月、遂に関宿城は北条軍の総攻撃を前に陥落し、降伏して開城しました。(第三次関宿合戦)
こうして三回に及ぶ城の支配権を巡る抗争は北条氏が制したことで、関宿城は北条氏における北関東への勢力拡大の重要拠点となりました。また、この時点での関東における上杉方の勢力は大幅に低下していき、影響力を失いつつありました。謙信は羽生城は破却後、越後へ撤退していきました。これ以降、謙信が三国峠を越えることはありませんでした。
1575年(天正3年)1月11日、養子の長尾顕景の名を「景勝(かげかつ)」と改めさせ、弾正少弼(だんじょうしょうひつ:正五位下に相当する地位)の官途を譲りました。
1576年 信長との対立・畠山氏との抗争
1576年(天正4年)4月、謙信は織田信長との戦いで苦境に立たされていた石山本願寺の顕如と和睦交渉を開始し、5月中旬に講和を承諾し、成立させました。また同じ頃、室町幕府第15代将軍「足利義昭(あしかがよしあき)」の要請を受け、武田・北条氏とも和睦を試みまるも成立しませんでした。 謙信が本願寺と同盟を結んだことで信長との同盟は破綻し、以降上杉氏は織田氏と敵対し続けることになりました。
越中国の平定
一方、越中国では謙信が国内を制圧して越後へ引き揚げる度に一向一揆は蜂起を繰り返していました。これに業を煮やした謙信は遂に越中を自国領にする方針に決めました。1576年(天正4年)9月、謙信は再び越中国に侵攻して、一向一揆支配下の富山城を始めとした諸城を次々に攻め落としていきました。また、数年にわたり謙信と敵対していた椎名康胤も討ち取り、遂に争乱の越中国の平定を達成しました。
畠山氏との対立
上洛を急ぐ謙信が次に目を付けたのは、能登国(のとのくに:現在の石川県北部)の平定でした。特に能登国拠点の「七尾城(ななおじょう)」を押えることは、越後国から京都へ進軍する際に、補給線を確保する上で非常に重要な拠点となりました。
当時の七尾城主は能登国守護の「畠山氏(はたけやまし)」の幼い当主「畠山春王丸(はたけやまはるおうまる)」でありましたが、実権は重臣の「長続連(ちょうつぐつら)」・「綱連(つなつら)」父子が握っていました。
また城内では信長に付こうとする長氏と謙信に頼ろうとする「遊佐続光(ゆさつぐみつ)」が主導権争いをしており、激しい内部対立がありました。謙信は平和裏に七尾城を接収しようとするも、畠山勢は評議の結果、徹底抗戦を決めました。これにより、能登国の覇権を懸けた「七尾城の戦い(ななおじょうのたたかい)」が勃発しました。
第一次七尾城の戦い
1576年(天正4年)11月、謙信は能登国に侵攻し、能登国の諸城を次々に攻略した後、七尾城を包囲しました(第一次七尾城の戦い)。七尾城内では長続連を筆頭に2,000の兵で籠城戦を決行しました。さらに続連は謙信の背後を撹乱する為、領民に対して一揆を起こす様に扇動しました。
しかし、事前に一揆に関する情報を網羅していた謙信は、これらを全て鎮圧した上で七尾城を包囲しました。
七尾城は東西1㎞に及ぶ難攻不落の巨大な山城であり、その威容は「天宮(てんきゅう)」とまで称されました。また、七尾城は謙信の居城である越後国春日山城に匹敵する「日本五大山城(にほんごだいやましろ)」の一つに数えられるほどの強固な城でした。
攻城に苦戦した謙信は、先に七尾城の周囲に位置する支城群を攻め落とし、七尾城を孤立させました。しかし七尾城の続連らは降伏せず、徹底抗戦を続けました。
畠山氏の反撃
翌年の1577年(天正5年)3月、関東の北条氏政が北関東方面に進軍を開始した為、謙信は越後へ撤退していきました。これにより、畠山軍は即座に反撃に転じ、上杉軍が前年に奪っった能登の諸城を次々に攻め落としていきました。関東諸将から救援要請を受けていた謙信は、能登国での戦況悪化に加えて、足利義昭から早期の上洛を促す書状が届いたことにより、再び能登への出陣を決意しました。
第二次七尾城の戦い
同年7月、謙信は2万の兵を率いて再び能登国に侵攻しました。謙信率いる上杉軍は畠山軍に奪われた諸城を次々に攻め落とし奪還していきました。
勢いづく上杉軍に驚いた続連は、慌てて奪い返した各地の城を放棄して七尾城に全兵力を集結させ、立て籠りました。さらに続連は領民に対して徹底抗戦を呼びかけると共に、半ば強制的に領民を七尾城へ引き入れました。これにより、七尾城内は城兵と領民を合わせた1万5,000人近くの大人数となりました。
また、続連は謙信の再出兵に危機感を強め、僧籍にあった息子の「長連龍(ちょうつらたつ)」を安土城の織田信長のもとに使者として派遣し、援軍を要請しました。要請を承諾した信長は、同年8月8日に家臣の「柴田勝家(しばたかついえ)」を総大将とした織田軍を能登に派遣しました。
しかし、8月9日に織田軍の「越前国」(えちぜんのくに:現在の福井県の北東部)への出兵を知った謙信は、同盟関係となった加賀の一向宗を指揮する「七里頼周(しちりよりちか)」に対して救援を要請し、織田軍の進軍妨害を依頼しました。これにより織田軍を足止めしてる間、謙信は七尾城攻略を急ぎました。(第二次七尾城の戦い)
七尾城陥落・能登国の平定
謙信率いる上杉軍は七尾城を再び包囲しますが、堅牢堅固な城で上杉軍を寄せ付けませんでした。しかし、城内で疫病が起こったことで事態は急変しました。大人数での長期にわたる籠城戦により、糞尿の処理が追い付かず、当時の城内の衛生環境は劣悪な状態となっていました。これにより城内に疫病が流行する事態となり、畠山軍に死亡者が相次ぎました。さらには当主の畠山春王丸までが疫病を患い死去しました。これにより畠山軍の士気は一気に低下していき、劣勢の畠山軍に勝機がないと踏んだ遊佐続光は上杉軍への降伏を主張しました。しかし、織田軍の救援を信じる長続連・綱連父子はこれを拒否しました。
頑なに降伏しない畠山軍に対し力攻めは不利と判断した謙信は調略を試み、兼光と内通しました。かねてから上杉派の中心であった兼光は謙信の呼びかけに応じ、仲間と共に結託して内応しました。そして同年9月15日、兼光は仲間と共に城内で反乱を起こし、城門を開けて上杉軍を招き入れました。この反乱により長続連・綱連父子は殺害され、さらに長氏一族100人余りがことごとく討たれました。長氏一族で唯一生き残ったのは、信長のもとに援軍を要請に行った連龍と、綱連の末子である「菊末丸(きくすえまる)」のみでした。こうして約1年に及んだ七尾城攻略は謙信の手により遂に落城し、能登国は完全に謙信の支配下に入りました。
1577年 織田軍との衝突
1577年(天正5年)8月、謙信が七尾城を攻めていた頃(第二次七尾城の戦い)、長続連から援軍要請を受けていた信長は七尾城を救援する為、軍勢の派遣を決定しました。援軍には柴田勝家を総大将として、従軍には「羽柴秀吉(はしばひでよし)」、「滝川一益(たきがわかずます)」、「丹羽長秀(にわながひで)」、「前田利家(まえだとしいえ)」、「佐々成政(さっさなりまさ)」など名だたる武将らが参加していました。
柴田勝家率いる織田軍は越前国「北ノ庄城(きたのしょうじょう)」に約4万の大軍を集結させ、8月8日には七尾城へ向けて越前国を発ち、加賀国へ入りました。道中で一向一揆勢に足止めに遭いますが、交戦しつつも織田軍は進軍を続けました。しかし途中で秀吉が総大将の勝家と意見が合わずに勝手に自軍を引き上げてしまう事態が起こり、織田軍の足並みに乱れが生じていました。さらに同年9月15日には謙信の調略で七尾城は陥落してしまい、これを知らない勝家率いる織田軍は尚も進軍を続けました。同年9月18日には「手取川(てどりがわ)」を渡り、水島(現在の石川県河北郡)に布陣しました。
一方の謙信は織田軍の接近を知り、直ちに占領下となった七尾城を出撃して手取川付近にあった「松任城(まっとうじょう)」にまで進出しました。同年9月23日、織田軍はようやく七尾城が陥落したことを知り、同時に謙信率いる上杉軍が手取川から10㎞の距離にある松任城に着陣しているとの急報が入りました。形勢不利を悟った勝家はすぐに撤退を開始しますが、大雨の影響で川が増水したこともあり、渡り終えた川をすぐに戻るのは困難を極めました。
手取川の戦い
その23日の夜、謙信は自ら8,000の兵を率いて手取川の渡河に手間取る織田軍を追撃を仕掛けました。突然の上杉軍の夜襲に織田軍も応戦しようとしますが、手取川の渡河で消耗し、また川の水で鉄砲や火薬が濡れて使い物にならなくなり、さらには先の秀吉の離陣もあって人数も減っていた為、士気及び戦力は大きく下がっていました。その為、織田軍は十分に反撃できず上杉軍に終始圧倒される形となり、この戦いは上杉軍の圧勝に終わりました。
のちに「手取川の戦い(てどりがわのたたかい)」と呼ばれたこの戦いで、織田軍の柴田勝家ら諸将は命からがら退却しましたが、1,000人余りの戦死傷者、さらに増水した手取川の急流で多数の溺死者を出しました。
この戦いの様子を詠った「上杉に逢うては織田も手取川 はねる謙信逃げるとぶ長(信長)」という有名な落首が残されており、意味は勢いに乗って追撃する上杉勢と、飛ぶように逃げ帰った織田勢の様子を表していました。
1578年 軍神の最後
1577年(天正5年)12月18日、謙信は春日山城に帰還し、12月23日には次なる遠征に向けての大動員令を発しました。1578年(天正6年)3月15日に遠征を予定していた謙信の最後の動員兵力はおよそ5万6千人にも及びました。しかし、その6日前である3月9日、謙信は遠征の準備中に春日山城内の厠で倒れ、昏睡状態に陥りました。その後意識が回復しないまま同年3月13日の午後2時に死去しました。(享年49歳)。
謙信死後の上杉氏
謙信の急死はその後の上杉氏に大きな混乱を招くことになりました。生涯独身を通していた謙信は養子の景勝・景虎のどちらを後継にするのかを決めていませんでした。この家督の後継を巡って景勝と景虎は抗争し、「御館の乱(おたてのらん)」が勃発しました。これを制した景勝が、謙信の後継者として上杉氏の当主となりました。しかし、この血で血を洗う内乱によって上杉氏の勢力は徐々に衰えていくことになりました。
豊臣政権時代
家督を継いだ上杉景勝は織田軍の侵攻に苦しめられますが、信長の死後はその地位を継いで天下人となった「豊臣秀吉(とよとみひでよし)」に恭順し、以降景勝は「五大老(ごたいろう)」の一人として豊臣政権を支えました。のちに秀吉の命により、上杉氏は本拠地を越後から会津へ移すことになりました。
江戸時代
秀吉の死後、次に天下を制した「徳川家康(とくがわいえやす)」に上杉氏は臣従し、本拠地を会津から米沢へ移されました。その地で景勝は「米沢藩(よねざわはん)」の初代藩主となり、以降米沢藩上杉氏は幕末まで続きました。
上杉謙信の生涯戦績
上杉謙信の生涯戦績は約70戦で、その内訳は「61勝2敗8分」または「43勝2敗25分」とも言われています。
勝率は95%越えと当時の戦国時代では最高クラスの数値を誇ったぞ!
しかも、敗戦はたったの2敗!謙信が戦上手と言われる所以だね!
その圧倒的な戦績から後世「軍神」「越後の龍」などと称されたぞ!
◎=謙信指揮による勝利、○=謙信配下による勝利、△=引き分け・あるいは戦況が不明、●=謙信指揮・敗退、×=謙信配下の敗退
合戦時期 | 合戦名 | 対戦相手 | 勝敗 |
1544年(天文13年) | 栃尾城の戦い | 黒田秀忠与党 | ◎ |
1545年(天文14年)10月 | 黒滝城の戦い | 黒田秀忠 | ◎ |
1554年(天文22年)8月 | 第一次川中島合戦 | 武田晴信 | △ |
1555年(天文24年) | 北条城の戦い | 北条高広 | ◎ |
1554年(天文24年)4月 | 第二次川中島合戦 | 武田晴信 | △ |
1557年(弘治3年)4月 | 第三次川中島合戦 | 武田晴信 | △ |
1561年(永禄4年)3月 | 小田原城の戦い | 北条氏康 | △ |
1561年(永禄4年)11月 | 第四次川中島合戦 | 武田信玄 | ● |
1561年(永禄4年)11月 | 生野山の戦い | 北条氏康 | △ |
1561年(永禄4年)12月 | 唐沢山城の戦い | 佐野昌綱 | △ |
1564年(永禄7年)8月 | 第五次川中島合戦 | 武田信玄 | △ |
1565年(永禄8年)3月 | 第一次関宿合戦 | 北条氏康 | ◎ |
1566年(永禄9年)3月 | 臼井城の戦い | 原胤貞 | ● |
1567年(永禄10年)3月 | 唐沢山城の戦い | 佐野昌綱 | ◎ |
1568年(永禄11年)3月 | 放生津の戦い | 一向一揆 | △ |
1568年(永禄11年)11月 | 本庄繁長の乱 | 本庄繁長 | ◎ |
1568年(永禄11年) | 第二次関宿合戦 | 北条氏照(北条軍) | △ |
1569年(永禄12年) | 松倉城の戦い | 椎名康胤 | △ |
1572年(元亀3年)1月 | 第一次利根川の対陣 | 武田・北条連合軍 | △ |
1572年(元亀3年)5月 | 五福山の戦い | 一向一揆 | × |
1572年(元亀3年)5月 | 松倉城の戦い | 椎名康胤 | ◎ |
1572年(元亀3年)9月 | 尻垂坂の戦い | 一向一揆 | ◎ |
1574年(天正2年)4月 | 第二次利根川の対陣 | 北条氏政 | △ |
1574年(天正2年)10~11月 | 第二次関宿合戦 | 北条氏政 | × |
1574年(天正2年)11月 | 金山城の戦い | 由良成繁 | △ |
1576年(天正4年)11月 | 第一次七尾城の戦い | 畠山春王丸 | △ |
1577年(天正5年)9月15日 | 第二次七尾城の戦い | 長続連・綱連 | ◎ |
1577年(天正5年)9月23日 | 手取川の戦い | 柴田勝家(織田軍) | ◎ |
ちなみに敗北した2戦は「生野山の戦い」「臼井城の戦い」だったぞ。
相手は長年関東の覇権を巡って争った北条氏を相手にした戦だね!
他の戦歴もそのほとんどが武田氏や北条氏との抗争が多かったぞ!
両者共に強敵であったにもかかわらず、それを一人で相手取った謙信はやっぱりすごいね!
軍事面の評価
1576年(天正4年)甲斐の僧侶が越後の長福寺の僧侶にあてた書状によると、宿敵である武田信玄は謙信のことを「日本無双之名大将」と度々評していたとされています。
信玄は死の直前、息子の次期当主である勝頼に対して次の様な遺言を残したとされています。
「勝頼弓箭の取りよう、輝虎と無事を仕り候え。輝虎はたけき武士なれば、四郎若き者に、小目(苦しい目)みをすることあるまじく候。その上申し、相手より頼むとさえ言えば、首尾違うまじく候。信玄大人気なく輝虎を頼むと言うこと申さず候故、終に無事になること無し。必ず勝頼は、謙信を執して頼むと申すべく候。左様に申して苦しからざる謙信なり」
内容は、武田勝頼は謙信と和議を結ぶように。謙信は男らしい武将であるから、若い四郎(勝頼)を苦しめるようなことはしないはず。まして和議を結んで頼るというのであれば決して約束を破ることはない。自分は(信玄)大人気なく謙信に頼ることをしなかった為、遂に和議を結ぶことは無かった。勝頼は必ず謙信に敬意を表して頼りにするのが良い。謙信はそのように評してよい人物である。
宿敵である武田信玄からも高く評価されていたみたいだね!
上杉軍は他大名と比較しても鉄砲、弓、馬などの軍事編成にさほど大きな差はなく、戦術的にも大きな違いはなかったとされています。
それにもかかわらず、「武田軍と上杉軍の強さは天下一である」と評され、謙信の死後も近隣諸国に噂されていた程の強さを誇っていました。
その一つが謙信の優れた戦略眼にありました。
謙信は前線で戦う事を好んでいたとされ、戦場では常に最前線で部隊を率いつつ、自ら軍を指揮していました。
部隊を指揮する上で、戦況の変化を瞬時に判断して、即時に部隊を動かすことは非常に重要であり、これらの早さこそが戦場においては勝敗に大きく左右されました。
それを謙信が戦場の中に自ら身を投じることで、移り変わる戦場の変化に対する対応能力は早くなり、味方は敵方よりも常に一歩早く動くことが可能となりました。
結果、謙信は多くの戦いを最前線付近で戦うことで、戦況を有利に進めることができ、高い勝率を挙げることができたとされています。
瞬時の判断による迅速な対応こそが勝利を分ける秘訣なのだ!
謙信は言わばワンマンで突っ込んでいく、即決即断のタイプの人だったみたいだね!
上杉謙信はどんな人だったの?
まずは、簡単なプロフィールから見てみよう!
名前 | 長尾景虎→上杉政虎→輝虎→謙信 |
別名 | 越後の龍、越後の虎、軍神 |
生年月日 | 1530年(享禄3年)2月18日 |
享年 | 49歳 |
身長 | 五尺二寸~六尺(約156~181.8cm) |
血液型 | AB型 |
出身地 | 越後国(現在の新潟県) |
父母 | 父:長尾為景、母:虎御前(青岩院) |
兄弟 | 異母兄:長尾晴景、長尾景康、長尾景房、異母姉:仙桃院 |
配偶者 | なし(生涯独身) |
子 | 養子:上杉景勝、上杉景虎など(その他4名) |
主君 | 上杉定実→上杉憲正→足利義輝→足利義昭 |
役職 | 越後守護代→関東管領 |
趣味 | 飲酒、和歌、琵琶、恋愛物(源氏物語や伊勢物語など) |
性格 | 正義感が強い、義理堅い、信心深い、酒豪、意外と乙女? |
主なライバル | 武田信玄、北条氏康、(越中・加賀)一向一揆 |
上杉謙信の役職について
我には2つの顔があったぞ!
①守護代、②関東管領の2つの役職に就いていたよ。
今からその2つの役職について話していくぞ!
①守護代とは?
「守護代」とは鎌倉・室町時代に「守護」の職務を代行していた役人の事を指しています。
ちなみに、「守護」とは幕府から統治を任せられていた領地を大名が治め、守護に就いていた大名は「守護大名」と呼ばれていました。
しかし、守護大名は領地には殆ど在住せずに、幕府(鎌倉・京都)に出仕していました。
その為、自分たちの任国地の統治に代理人を任命し、統治運営を一任していました。この領地の統治運営を「守護大名の代わり」として行うのが守護代の役目でした。このような事柄が「守護代」の由来になっています。
守護代に任命される人物たちは、主に守護大名の一族、あるいは在国の最有力国人から任命されました。
ちなみに代々越後国の守護は「上杉氏」、守護代は「長尾氏」が世襲していたぞ!
当時の越後の守護大名である「上杉定実」は謙信の主君にあたるね!
②関東管領とは?
「関東管領」とは鎌倉府長官である「鎌倉公方」と言う職務を補佐する為に設けられた役職です。
ちなみに「鎌倉公方」とは、室町幕府が東国(主に関東10か国)支配の為に置いた鎌倉府の長官で、関東公方とも呼ばれていました。
室町幕府には、将軍を補佐する役職として「管領」と言う役職が置かれていました。管領は、幕政においても大きな役割を持っていましたが、元々は将軍と共に京にある役職でした。
その為、京から離れた武士の本拠地である「鎌倉」の地で武士達を統括する意味でも役職を置く必要性があり、それが「鎌倉公方」とこれを補佐する「関東管領」の2つの役職が置かれるようになりました。
我はれっきとした室町幕府の一員でもあったぞ!
ちなみに当時の室町幕府将軍の足利義輝・義昭とは主従関係にあたるよ!
鎌倉公方と関東管領の歴史
鎌倉公方は、代々足利家の分家が就き、鎌倉府(鎌倉)を拠点にしていたことから「鎌倉殿」とも呼ばれ、これに対して京の室町幕府の将軍の事を「室町殿」と呼びました。
一方「関東管領」は上杉家が関東での政務を独占して代々世襲していました。
しかし、鎌倉公方の足利家と関東管領の上杉家が対立して内乱が起き、鎌倉公方の足利氏は鎌倉から追い出されてしまいました。これにより、足利氏は下総の古河御所を新たな本拠地とし、「古河公方」と呼ばれるようになりました。
一方、室町幕府側からも新たな鎌倉公方の後継として人材を送りましたが、鎌倉に入れず、伊豆の堀越に御所を構えたことから「堀越公方」と呼ばれるようになりました。
これがきっかけで、鎌倉府と共に鎌倉公方という肩書は消滅しました。
以降、関東では古河公方が頂点とし関東諸国の豪族勢力に加えて、幕府側の堀越公方・関東管領山内上杉家・扇谷上杉家が関東を東と西に分けて戦い続けました。これが長期化し、のちの戦国時代へと進んでいくのでした。
上杉謙信の人物像
身長
吉川元春(毛利輝元の叔父)の使者・佐々木定経は謙信と対面した時、「音に聞こえし大峰の五鬼、葛城高天の大天狗(謙信)にや」と謙信のことを大天狗扱いするなど、「六尺近い偉丈夫」が有力説とされてきましたが、「小柄」と表記されている文献もいくつか存在し、謙信の身長については諸説あるようです。
六尺は現在で言うと181.8㎝にあたるよ!当時からするとかなりの高身長だね!
ちなみに近年の研究だと、五尺二寸ほど(156㎝程度)だったという声も挙がってるみたいだぞ!
青年期
上杉謙信は、7歳の頃に越後の「林泉寺」(りんせんじ)に預けられ、青年期まで住職の「天室光育(てんしつこういく)」の元で禅を学んでいたとされています。
寺では、座学と実践教育なども行なわれていましたが、その中でも当時の謙信が強く関心を示したのが兵学でした。
特に城攻めに対しては、城の模型の中に兵士に見立てた駒や武器を配置して作戦を考えるシミュレーションゲームにのめり込み、他の修行がおろそかになってしまう程に熱中していたとされています。
謙信の天才的な戦略家としての才能の下地は、この時期に養われていたんだね!
政治面
軍事面での高い評価が目立つ謙信ですが、領国経営センスも持ち合わせてたみたいです。
衣料の原料となる「青苧(あおそ)」に目を付けた謙信は領内で栽培させ、全国に販路を拡大させていました。結果、この青苧の販売は越後に莫大な利益をもたらし、佐渡の金山と並んで貴重な収入源となりました。
謙信の死後、春日山城には2万7140両の蓄えがあったと言います。
2万7140両は現在の価値で言うと約35億円相当もしたよ。
教養面
謙信は和歌や書にも通じていたとされ、特に和歌については公家の近衛稙家(このえたねいえ)から和歌を学んでいたとされています。
その為、謙信は京の公家達との交流も深く、教養ある文化人としても知られていました。
特に源氏物語や伊勢物語などを始めとする恋愛物を好んでよく読んでいたとされ、雅歌(恋歌)を詠むのも得意だったとされています。上洛の際には、開催した歌会に参加して、そこで見事な雅歌を詠み、参加者全員を驚かせたと言います。
また、琵琶を奏でる趣味もあったそうです。
謙信は単に戦上手なだけでなく、教養面も併せ持った文武両道の将だったんだね!
人間関係
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上洛の際には歌会に参加して和歌を詠むなど、公家達はもちろんの事、関白家の近衛前嗣(このえさきつぐ)や将軍の足利義輝など、朝廷や幕府関係の人達と深く関わっていたとされています。
それを示唆するように「上杉家文書・上越市史特別篇」では、公家達と酒を酌み交わしたという記述があります。内容は、近衛前嗣の「この間公方(将軍・足利義輝)と景虎(謙信)が私の家に来て、大酒を飲んで夜を明かした」というエピソードが残っています。
謙信は当時関東管領職に就いていてたから、周囲からは幕府の役員の一人として認識されていたよ!
その為、我は通常の武将や大名と比べても必然的に朝廷や幕府関係の人達との交流は多かったぞ!
そうだとしても、朝廷や幕府関係の人達との関係をここまで親密に築き上げることができたのは、謙信の人間力と魅力が成せる業あってこそだね!
食事関係
謙信の家臣達は、謙信の食事で出陣の有無を察知していたと言います。
謙信は日頃から倹約に努め、日常の食事も一汁一菜と質素に過ごしていました。しかし、戦の前になると飯を山のように炊かせ、山海の珍味を豊富に並べ、家臣達や将兵に大いに振舞っていました。日頃の倹約ぶりを知る家臣達はその豪勢な食事に喜び、結束を固くしたとされています。
これが客をもてなす「お立ち飯」「お立ち」として後世に伝わり、今も新潟県や山形県の一部に風習として残っています。
私生活においても自分自身に質素倹約を強いていたぞ!
自分に対しては厳しい謙信だったけど、家臣の前では気前が良い一面もあったみたいだね!
ただただ厳しいだけでは人の上に立つ者として領主は務まらないのだ!
女性関係
上杉謙信は生涯不犯(妻帯禁制)を貫いたため、子供は全員養子でした。
しかし、そんな謙信にも複数の恋物語があったとされています。
その一つは「松隣夜話」によると、当時二十代の若き頃の謙信は敵将の上野・平井城主千葉采女の娘である伊勢姫と恋に落ちたと言います。しかし、重臣らの猛烈な反対によってその恋は引き裂かれました。やがて伊勢姫は剃髪して出家した後、ほどなくして自害してしまいました。これに対して謙信は食事ものどを通らず病床に伏せてしまうほどに心を痛めたとされています。
超硬派なイメージの謙信だけど、若い頃にこんなセンチメンタルなエピソードがあったとは驚きだよね!
性格
関東管領職に拘り続けた一面があったことから、形式に拘る「形式主義者」権威を重視する「権威主義者」、室町幕府の復興を願ったことから「復古主義者」と研究者からは評価されています。
謙信が関東管領職に拘り続けた理由として、越後国の各地で権力を行使する国人領主達を統合する為でした。
当時、室町幕府の権威は失墜の軌道を辿っていましたが、関東管領はまだある程度通用していたようで、国内統治には欠かせない程に強い権威を持った職であった事が示唆されています。
また、代々関東管領職を継承してきた山内上杉氏(上杉氏宗家)の跡を継ぐことで、分家である越後上杉氏由来の家臣達が多くいる越後国の統一を目指していたという指摘もあります。
また、これら権威や管領に対する敬意は謙信の義理堅さを表しているという指摘もあります。
謙信の関東出陣回数は17回にも及び、いったん広げた勢力図は北条・武田氏の攻勢やそれを受けた諸将の離反で徐々に縮小していきましたが、これも謙信の義理堅さの表れという見方がされています。
謙信の関東遠征も始まりは人助けから始まったんだ!
正に「弱気を助け強気をくじく」を実行したんだね!
そういった面から、謙信は正義感の強い武将としてのイメージが一般的によく知られているよ!
また、謙信の「正義」や「義」を重んじる性格から「義の武将」とも称されているよ!
義理堅い事で知られる謙信ですが、一方で当時は越相同盟を結んでいた北条氏からの強い要請にも関わらず武田氏との衝突を避け、途中には信濃・関東への南下政策から北陸侵攻に力を入れ始めるなど、領土拡大や利害を慎重に判断していたという見方もあります。
また、現代に伝わる謙信の美化は、江戸時代の紀州徳川家が後援した上杉流軍学による影響や、上杉景勝以降の米沢藩による謙信を神格化して家中統一を図った経緯によるものとの指摘もあります。
逸話
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次は謙信の性格や行動などにまつわる逸話やエピソードをいくつか紹介するよ!
1573年 (天正元年)8月、謙信率いる上杉軍は越中国と加賀国の国境にある朝日山城を攻めていました。敵である一向一揆による鉄砲の乱射を受けた謙信は形勢不利と考え、軍に一時撤退を命じました。
しかし、家臣の吉江景資の子である与次だけは弾が飛び交う中で奮戦して撤退しようとしませんでした。これを受け、謙信は与次を陣内に拘禁したのでした。
驚いた周辺は与次を許すように申し入れましたが、謙信は「ここで与次を戦死させたら、越後の父母(吉江景資夫妻)に面目が立たなくなる」と言い、これを拒否しました。
のちに謙信は事情を吉江家に説明し、間もなくして与次は許されたのでした。
自分の家臣の家族の事にまで気配りをしていた謙信の器量の大きさを物語っているね!
家臣団の内部抗争、国人層の離反など、さらには信玄との戦いが膠着状態に陥りつつある状況に嫌気がさした謙信(当時は長尾景虎)は毘沙門天堂に篭ることが多くなり、次第に信仰の世界にのめり込むようになりました。
そして、1556年(弘治2年)3月23日、家臣団に出家の意向を伝え、6月28日には春日山城を出奔し、高野山を目指したとされています。
しかし8月17日、大和国(やまとのくに:現在の奈良県)の葛上郡(かつじょうぐん)吐田郷村(はんだごうむら)で家臣が追いつき必死に懇願した結果、謙信は出家を思い止まったとされています。
謙信の風変わりな性格をよく表している逸話とされていますが、この件で家臣団は「以後は謹んで臣従し二心を抱かず」との誓紙を差し出す事で謙信に忠誠を示し、騒動を治めたとされています。
一説によると、人心掌握を目的とした計画的な行動だったとも言われていて、これがきっかけで家臣団の結束はさらに固まったみたいだよ!
舞台は第四次川中島合戦で、武田と上杉両陣営の旗本(はたもと)が入り乱れての大乱戦となりました。
信玄の身辺が手薄になった時、風のように信玄の本陣に単騎で切り込んできた武者がいました。
萌黄(もえぎ)の胴肩衣(どうかたぎぬ)をつけ、頭を白布で包んだ武者は月毛の馬の馬上から、三尺ほどの太刀をふるい、床几(しょうぎ※)にかけている信玄めがけて、三太刀斬りつけました。
信玄は立ち上がり手にした軍配団扇で受け止めましたが、腕に二箇所の傷を負いました。これに駆けつけた信玄の旗本が槍で馬上の武者を突くも、外れ、鎧の肩に刺さりました。
これを叩き落とそうとしますが、誤って馬の尻を叩いてしまい、馬は立ち上がり、一目散に走り去っていきました。
この白頭巾の武者こそが、上杉謙信(当時は政虎)であったとされています。
また、後で信玄の団扇を調べてみると、刀の傷が七つもあったとされています。
実際に戦場となったその地では、現在「三太刀七太刀之跡(みたち ななたちのあと)」の碑が立てられ、謙信と信玄の一騎討ちがあった場所として後世に伝えられています。
ここからは一騎打ちに関する様々な説を紹介するよ!
①「甲陽軍鑑」
「馬上から切りつける謙信の太刀を、信玄は床几から立って軍配団扇で受けとめた」と記されています。
萌黄(もえぎ)の胴肩衣姿(どうかたぎぬ)を付け、頭を白手拭で包んだ武者が月毛の馬に乗ったままで、床几に腰掛ける信玄にめがけて、三太刀斬りつけた。信玄は動揺することなく、床几から立ち上がって軍配団扇(ぐんばい うちわ)で太刀を受け止めた。
そして、御中間頭の原大隅守(原虎吉)が馬を槍で突くと、騎馬武者はその場から走り去ったという。実は、この騎馬武者こそが上杉謙信だったとされています。
②「甲越信戦録」
「謙信公はただ一騎で信玄公の床几の元へ乗りつけ、三尺一寸の太刀で切りつける。信玄公は床几に腰を掛けたまま軍配団扇で受け止めた」とあります。
また、「信玄は軍配団扇ではっしと受け止める。また切りつけるを受け止め、たたみかけて九太刀である。七太刀は軍配団扇で受け止めたが、二太刀は受けはずして肩先に傷を受けた」ともあります。
③「北越軍談」
「御幣川に馬を乗りいれ、川の中での太刀と太刀との一騎討ち」とあり、太刀による一騎打ちになっています。
この時、信玄は手に傷を負ったとされていますが、それは「北越軍談」が上杉方の軍記物語だからで、あえて謙信の手柄を強調したものと推測されています。
④「川中島五戦記」
御幣川に馬を乗りいれ、川の中での太刀と太刀との一騎討ちと記載されている。
鬼気迫る当時の戦場の様子を物語っているね!
両者共に多数の死者を出すほどの激戦となったぞ!
信玄と謙信が一騎打ちをしたという確かな一次史料(当時の書状など)は存在しないみたいです。
江戸初期に編纂された軍書「甲陽軍鑑」など、上記で述べた説は全て後世に成立した二次史料の記述ばかりです。
その為、「上杉謙信と武田信玄の一騎打ち」は後世の創作であるという説が現在では濃厚とされています。
謙信の宿敵として知られる武田信玄ですが、一説によれば生涯に亘る因縁から転じて二人の間には友情めいたものがあったのではないかと現在でも推測されています。
「萩原芦沢文書」によると、1567年(永禄10年)信玄は同盟国である駿河の今川氏真との関係が悪化しました。これにより、氏真は武田氏の領国への塩の流通を止めました。武田氏の領国である甲斐・信濃は内陸の為、塩が採れない環境にありました。
この氏真の行いに対し、謙信は「卑怯な行為」として批判し、「私は戦いでそなたと決着をつけるつもりだ。だから、越後の塩を送ろう」と言って、越後から信玄に塩を送ったという逸話があります。
義理堅い性格の謙信を表す有名なエピソードの一つだね!
たとえどんな敵であろうと、我は相手の弱みに付け込む行為だけは絶対に許さないぞ!
この逸話に関しては裏付ける史料が無く、後世の創作ではないかとも考えられており、また謙信が今川に同調して塩止めを行ったという記録もありません。
しかし、この時に感謝の印として信玄が謙信に送ったとされる福岡一文字の在銘太刀「弘口」一振(塩留めの太刀)は重要文化財に指定され、現在も東京国立博物館にて所蔵されています。
「日本外史」では信玄の死を伝え聞いた食事中の謙信は、「吾れ好敵手を失へり、世に復たこれほどの英雄男子あらんや」と箸を落として号泣したといされています。「関八州古戦録」でも同様の話が伝えられています。
「松隣夜話」では信玄の死後3日間城下の音楽を禁止したとされています。その理由として「信玄を敬うというより武道の神へ礼を行なうため」と挙げています。「信玄亡き今こそ武田攻めの好機」と攻撃を薦める家臣の意見を「勝頼風情にそのような事をしても大人げない」と退けています。
一説によると、長年の敵対関係から徐々にお互いに実力を認め合った言わばライバル関係の様な気持ちが両者の間に芽生え始めたとされているよ!
一方で上記の逸話は後世の創作の可能性もあり、謙信は信玄をかなり嫌っていたとも伝えられています。信玄が父親を追放したり、謀略を駆使して敵を貶めたりするには謙信に言わせるところの道徳観に反しており、謙信は信玄の行いに激怒したと言います。
また、信玄との利益を度外視した数々の闘争は、謙信が純粋に信玄を嫌っていたことが原因だという説もあります。
甥の喜平次(後に養子となる景勝)に宛てて身の上を案じる手紙を頻繁に送るなど、子煩悩な一面も見せていました。
特に関東遠征中であった1562年(永禄5年)2月13日には、当時8歳だった喜平次に習字の手本として自ら「伊呂波尽手本」(いろは文字)を書いて送っています。
手紙の本文も叔父らしい情け深いものだったと言われています。
子どもは目に入れても痛くないほどかわいいぞ!
いつも戦場へと駆ける姿から想像すると、意外な一面だよね!
主君である謙信に対して二度も謀反を起こした家臣の北条高広を二度とも許し、帰参させています。
また謙信に対し幾度も反乱を起こした佐野昌綱に対しても、降伏さえすれば命を奪うことはしませんでした。
同様に、家臣である本庄政繁が挙兵した際も、反乱を鎮圧した後に繁長の帰参を許しています。
当時は下剋上なんてのが当たり前に起こっていた時代だから、当然家臣の裏切り行為自体も多かったぞ!
それでも命取りには違いないのに、裏切り行為を許すなんて謙信はとんでもなく寛大な心の持ち主だね!
でも一方で規律を守る為、厳しい処置も行っていたぞ!
謙信の重臣である柿崎景家の死について、「景勝公一代略記」では景家と織田信長が内通しているとの噂を信じた謙信によって死罪に処されたものとされています。
しかし近年ではこの説は疑問視されており、景家の最期は「病死、伏誅、手打ち、攻殺、逃亡」の5説があります。
また、信長と内通した末に誅殺されたのは景家の嫡子晴家だったとする説もあります。
「北越軍記」によると、重臣の長尾政景の死についても家臣の宇佐美定満に命じて殺したとする伝えがあります。
また、「謙信公御年譜」では、宇佐美定満と野尻池で舟遊びの最中、暑さを凌ぐために遊泳に興じたところ、酒に酔っていたこともあり溺死したと記しています。
しかし、信憑性に乏しい資料である為、近年では創作された可能性が高い説であるとされています。
北条軍に対する陣頭指揮を怠ったとして、当時の厩橋城の城代であった長尾謙忠(ながおけんちゅう)を、謀反の疑い有りとして誅殺したとされています。
信憑性はともかくとして、謀殺説は謙信の厳格な一面を今に伝えているね!
永禄4年(1561年)、謙信は関東管領の就任式で配下である忍城城主・成田長泰(なりたながやす)の非礼に対して激昂し、顔面を扇子で打ちつけたというエピソードが書物に残っています。諸将の面前で辱めを受けた成田長泰は直ちに兵を率いて帰城してしまったと言います。
原因は諸将が下馬して拝礼する中、成田長泰のみが馬上から会釈をした為であったとされました。成田氏は藤原氏の流れを汲む名家で、先祖は当時の武家の棟梁であった源義家(みなもとのよしいえ)にも馬上から会釈を許された家柄であったとも言われています。
しかし、謙信はこの故事を知らなかったそうです。
この事件後、成田長泰は敵である北条氏に寝返ってしまったぞ!
一説によると、この事件で関東諸将の謙信への反感が急速に高まって、以後の関東進出の大きな足かせになったとされるよ!
成田氏の地位について、上記のような尊大な態度を取れるほど高くはなかったとされています。また、義家を馬上で迎える先例に関しても原史料では確認されておらず、研究者間でもこの説は事実として認められていないみたいです。
また、関東諸将の謙信への反感や離反の理由に関しても上記と同様です。
北条氏政により唐沢山城が攻囲された際、8千人の兵を率い救援に向かった謙信は、自らが物見をして城主の佐野昌綱ら籠城勢が危機的状態であることを感知しました。
謙信は「ここまで来て昌綱を死なせてしまっては後詰としての名折れだ、ここは運を天にまかせ、自分が敵の陣を駆け抜けて城に入り力を貸そう」と言い、甲冑を着けずに黒い木綿の道服と白綾の鉢巻のみを身に付け、愛用の十文字槍を持ち、またいずれも白布の鉢巻をさせた馬廻や近習など、主従合わせ数十騎(諸説あり)ばかりで北条軍3万5千人に対して敵中へ突入しました。
敵方はただ唖然として見つめ、襲えば何か奇計を用いて報いられると思い誰も攻めかからなかった為、作戦のままに謙信は入城したとされています。 (「関八州古戦録」より)
これを見聞きした北条方の将兵は謙信をして「夜叉羅刹とは是なるべし」と大いに恐れたとされています(「常山紀談」「名将言行録」より)。
そして翌朝、謙信は佐野昌綱ら唐沢山籠城勢と供に攻囲する北条軍に内側から攻め掛かり、自らも槍を取って奮戦しました。
残されていた上杉軍もこれに呼応して、唐沢山城を攻囲する北条軍を外側から攻撃を仕掛けました。
その結果、北条軍は約1千人余りの死傷者を出して唐沢山包囲から撤退したとされています。
謙信の戦場における強さを表すエピソードの一つだね!
謙信が酒豪であったことを示す資料がいくつか残されています。
その一つが、当時謙信が愛用していたと知られる杯にあります。その杯は「馬上杯(ばじょうはい)」と言われる直径12㎝ほどの大盃であり、馬に乗った状態で酒を飲めるよう工夫した杯で、三合も入る代物です。その杯は現在も山形県米沢市の上杉神社に保管されています。
当時、謙信は戦場にも持参し、冬の行軍中では酒を飲むことで暖を取っていたとされています。
また、謙信は飲酒時に肴は何も食べなかったとされ、ただ酒を大量に煽ったと言います。
謙信が馬上でも頻繁に酒を煽っている様子が想像に付くね!
謙信は時世の句でも自分の人生を酒に例えています。
「四九年 一睡夢 一期栄華 一盃酒」
49年の生涯はひと眠りした時に見た夢のように儚くて短いものだった。私の栄華など盃一杯の酒のようだった。
死去する1か月前の2月、謙信は京都から画家を呼び寄せて自らの肖像画と後姿を描かせました。
肖像画は現在でもよく知られている謙信像ですが、後姿はなんと盃を描かせたと言います。
このときのことを謙信は、「この盃すなわち我が後影なり」と語ったとされています。
謙信には現存する同時代の肖像画が存在せず、現在流布しているものは、かつて高野山無量光院が所蔵していた謙信の晩年期を描いた図像を元にされていますが、1888年(明治21年)高野山の大火で焼失しました。
江戸時代には信玄はじめ他の戦国諸大名と同様に軍記物による影響を受け、軍陣武者像や法体武将像、仏画風僧侶像など多様な謙信のイメージが確立されました。
現在、模写を含めて28点の謙信像が確認されています。
我は三度の飯より酒が好きであったぞ!
謙信の大の酒好きぶりがよく伝わるエピソードだったね!
七尾城の戦いのとき、謙信は有名な「十三夜」の詩(七言絶句の漢詩)を作ったとされています。
この詩は頼山陽()の「日本外史」に載せられて世間一般に広く知られました。
しかし、「常山紀談」や「武辺噺聞書」では実際の内容と少し異なることから、現在に伝わっているものは頼山陽より添削されたものと考えられています。
十三夜は七尾落城の二日前であり、謙信は実際に本丸には登っていないという説があります。
また、和歌によく通じた謙信も漢詩はこの他に一度も作ったことがないなど、不自然な点がいくつか見つかっています。
第四次川中島合戦の直前、謙信は北条氏康討伐の為、10万人を超える関東の大連合軍を率いて小田原城などに攻め入り、北条軍を追い詰めていました。その隙をついて武田信玄が信濃にて軍事行動を起こしました。
この時、信玄は上杉氏諸将の不安をあおる為に行動を起こしただけで本気で戦をする気はなかったとされています。
事実、上杉軍が動きを止めた後、武田軍はすぐに撤退しています。
謙信は信玄の意図を見抜いており、作戦続行を主張しましたが、肝心の関東諸将が長期出兵を維持できず一部が無断で陣を引き払うなどした為、結局は撤退するしかなかったされています。
さすがの我でも、これだけの大軍の将兵達を長く維持するのはかなり骨が折れたぞ!
「越佐史料」によると、関東出兵時に人身売買を行った言う記録があります。上杉軍が小田城を攻略した際、捕虜にされた人達が謙信の指図で売買されたとされています。
戦勝国の戦利品として敗戦国側の人の身柄は確保されていたぞ!
戦勝国の特権だった訳なんだね。戦国時代の当時では珍しいことでもなかったみたいだよ!
1908年(明治41年) 9月7日、謙信の勤皇を評価され、日本の位階である従ニ位(じゅにい)の贈位を受けたほか、上杉神社が別格官弊社(べっかくかんぺいしゃ)に列せられることになりました。
別格官弊社とは、神社の社格の一つであり、古来国家の為に功労のあった人臣を祭神(さいじん)とする神社の為に設けられました。
他にも上杉神社を含めた28社が列せられていましたが、1946年(昭和21年)に社格は廃止されました。
上杉謙信の家紋や毘沙門天の旗印とは?
「九曜巴」の家紋
謙信の姓名は本来「長尾(ながお)氏」で当初は「長尾景虎」と名乗っていました。
「謙信」は法号、つまり出家したことによる僧侶としての名であり、これがもっとも有名な通り名となっています。
その為、長尾氏の紋である「九曜巴(くようともえ)」を用いていました。
大きめの丸の周囲に八つの丸を配置したマークで、天体に由来しています。
日曜から土曜までの日・月・火・水・木・金・土を「七曜(しちよう)」または「七曜星(しちようせい)」と呼び、これに「計都(けいと)」と「羅睺(らごう)」という二つの星を加え、これら九つの星を神格化して九曜と呼ばれるようになったと伝わっています。
当時、長尾姓だった謙信は、この九曜紋の丸の一つ一つを「巴」の意匠に置き換えた「九曜巴」を用いていたとされています。
ちなみに巴紋は武神である「八幡(はちまん)」の神紋として広く知られていて、代々武士達の間では篤く尊崇されてきた経緯があるよ!
「上杉笹(竹に雀)」の家紋
謙信は当時の山内上杉氏当主の上杉憲政から上杉氏の家督を継ぎ、姓名を「長尾景虎」から「上杉政虎」と変えました。これと同時に家紋も「長尾氏」から「上杉氏」のを使用するようになりました。
この家紋は「竹に雀」が使用されているのが特徴的で、「上杉笹(うえすぎざさ)」とも呼ばれました。
上杉氏の源流を辿ると祖先は「藤原氏」であり、そのうちの藤原北家の「勧修寺(かじゅうじ)流」という公家の一族が始祖にあたりました。その時に勧修寺家が用いていた紋が「竹に雀」であり、上杉氏となった当時でも代々受け継がれていたようです。
実は上杉氏は仙台伊達氏と縁戚関係にありました。「伊達政宗(だてまさむね)」の三代前に遡ると上杉氏の姫が伊達氏に嫁いだことがあるみたいです。
そういった経緯があってか「竹に雀」の紋が伊達氏でも用いられるようになり、現在のような「仙台笹(せんんだいざさ)」と呼ばれる独自のデザインを持つ家紋が出来上がったとされています。
毘沙門天の旗印
謙信は優れた軍略家である一方、熱心な信仰家な一面も持ち合わせていました。特に武神として知られている「毘沙門天」を深く崇拝し、そして自らを「毘沙門天の化身」と信じていました。また、軍旗にも毘沙門天の「毘」の一字を使用していました。
仏教世界においての毘沙門天は「四天王」・「十二天」の内の一人に数えられる神様であり、毘沙門天は四天王の中でも特に最強の武神として崇拝されてきました。
その為、戦いや勝利の神様として武将達の間でも多くの信仰を集めてきました。
別名について
毘沙門天は北方の守護を司る「北の守護神」を担っていることから「北方天」とも呼ばれ、また、「お釈迦様の教えを一番多く聞いていた」という逸話から「多聞天(たもんてん)」とも呼ばれています。
呼び名に関しても独特なルールがあり、四天王の1人として数えられる場合は「多聞天」、単独で祀られる場合は「毘沙門天」とそれぞれ呼び分けられるのが通例となっているみたいです。
名前の由来
毘沙門天は、古代インド・ヒンドゥー教で「クベーラ」と呼ばれていた神様が元になっており、別名を「ヴァイシュラヴァナ」と言います。
ヴァイシュラヴァナとは、「すべてのことをいっさい聞きもらさない知恵のある者」という意味があります。
これを漢字で表すと「毘舎羅門(びしゃらもん)」となり、そこからさらに変化して「毘沙門(びしゃもん)」となったとされています。
そして、天界に住む者の総称である「天部」または「天」を名前に付け加える事で現在で知られる「毘沙門天(びしゃもんてん)」という名前になりました。
古代ヒンドゥー教では金運と福徳の神様として崇拝され、日本でも財福の神様として信仰されてきました。
しかし、仏教世界を守護する強いイメージからか甲冑を身につけた武将の姿で表されるようになり、やがて人々の中で武神として認識されるようになったとされています。
容姿
毘沙門天は、甲冑を着て武装した屈強な男神像で表されてるのがほとんどであり、右手には「宝棒(ほうぼう)」と呼ばれる武器、左手には「仏舎利(ぶっしゃり)」が納められた入れ物の「宝塔(ほうとう)」を持っています。
右手で持ってる宝棒は邪鬼を追い払い、左手で持ってる宝塔は豊かさを授けると言われています。
顔は悪を払う為に忿怒相(ふんぬそう:怒った顔)で相手を圧倒する迫力ある表情をしています。
謙信の信心深さを示すエピソードがいくつか残っているよ!
エピソード①
謙信は春日山城中に毘沙門堂を建立して日々読経を欠かさなかったとされています。
出陣の際には、毘沙門天が安置された毘沙門堂に籠って戦勝祈願を行い、また重臣達を春日山城内の毘沙門堂に集め、毘沙門天の前で誓約していたとも伝わっています。
また、急遽出陣しなければならなくなった時には、「我をば毘沙門天と思ひて我前にて神文させよ」と言うように自身を毘沙門天の化身だと信じて誓約していたとされています。
戦に明け暮れる日々を送る謙信が、久しぶりに春日山城に帰陣して、毘沙門堂へ上がった所、驚いたことに堂内には泥のついた足跡が毘沙門天像まで続いていたという話が伝承として残っています。
謙信は「毘沙門天が共に戦場を駆け巡ってくれた」と歓喜し、この毘沙門天像を「泥足毘沙門天」と呼ばれるようになったとされています。
信仰してた神仏は1つではなかった?
謙信は旗印にした毘沙門天だけでなく、仏道にも深く帰依していたことでも知られています。
1555年(弘治元年)には大徳寺の門を叩き、「宗心」の号を名乗るとともに「三帰五戒(さんきごかい)」の戒律を授かりました。
「三帰五戒」とは、仏・法・僧の三宝に帰依し、不殺生(ふせっしょう:殺さず)・不偸盗(ふちゅうとう:奪わず)・不邪淫(ふじゃいん:犯さず)・不妄語(ふもうご:騙さず)・不飲酒(ふおんじゅ:酒を飲まず)の五戒を誓うことで、正式に仏教徒になる戒律でした。
こうした信仰は後世まで謙信の生涯に影響を与え、「義」を重んじる武将として知られるようになりました。
また、謙信は侵略の為の戦争はせず、あくまで他国の救援という目的のみで戦争をしていたとされています。(「白河風土記」より)
ちなみに、謙信の母である「虎御前」も信仰深い人で、当時少年時代だった謙信の人格形成に大きな影響を与えたとされるよ!
我が人一倍正義感が強くなったのも、幼少期からの深い信仰心が関係していたぞ!
上杉謙信の変わり兜とは?
謙信が所用していた複数の兜にはそれぞれ宗教的な意味合いが含まれていたよ!
日輪弦月(日輪三日月)
兜の前立は「日輪三日月(にちりんみかづき)」と呼ばれる日輪(太陽)と三日月がモチーフとなっています。モチーフとなっている日輪と三日月は、勝利や護身にご利益がある「摩利支天」を象徴しています。
摩利支天とは古代インドのマーリーチーが仏教に取り込まれて生まれた神様です。マーリーチーはサンスクリット語で「日月の光」を意味し、陽炎を神格化したものです。
姿が見えずとらえどころがない陽炎のように、敵をかく乱しつつ、自分の力を最大限に出し上昇気流に乗せ、戦に勝つという縁起のいい
摩利支天は小さく、イノシシに乗り素早く移動する為、実体が見えず戦場の守り神として武将に広く信仰されました。
また、謙信が「日輪」と「三日月」を選んだ理由として、妙見信仰(みょうけんしんこう)による影響とも考えられています。妙見信仰とは、妙見菩薩(みょうけんぼさつ)を指していて、北極星または北斗七星を神格化したもので、開運の守護神としても知られています。また、古くから軍神として崇拝されてきた神様でもありました。
「月」「太陽」の両者を信仰していたことから兜の鍬形として「日輪」と「三日月」の両方が設置されたと考えられています。
ちなみに実物はどうやら現在は残ってないみたいだね!
飯綱権現
兜名は「鉄錆塗六十二枚張兜(てつさびじぬりろくじゅうにまいはりかぶといろいろおどしかぶと)」前立になっているのは白狐に乗った烏天狗です。具足は色々縅腹巻(いろいろどうはらまき)を使用していたとされています。
この飯綱権現はインドから渡ってきたダキニ天と、不動明王信仰が合わさった神様です。戦を勝利に導き、未来を予想する力も持つとされています。
不動明王は多くの戦国武将に信仰され、ダキニ天は無神論として知られるかの織田信長さえも信仰していたと伝えられています。また謙信の深い信仰心に通じて、飯綱権現を信仰する為に生涯独身を貫いたという説もあります。
現在は国指定の文化財として、上杉神社(山形県米沢市)に収蔵されています。
戦いに赴く前に必ず行っていた出陣の儀式で常に着用していたぞ!
三宝荒神
兜名は「三宝荒神形張懸兜(さんぽうこうじんなりはりかけかぶと)」具足は朱皺漆紫糸素懸縅具足(しゅしわうるしむらさきいとすがけおどしぐそく)を使用していたとされています。
特徴は何と言っても憤怒(ふんぬ)の形相を浮かべた三宝荒神で、正面と後方の三面に位置しています。
また、色も特徴的で正面は赤い面に対し、後方の左右は黒と青の面となっています。荒神の面は紙や革に漆を塗った張懸(はりがけ)という技法で作成されていて、頭形(ずなり)に正面と後方左右にそれぞれ有した形となっています。
まるで「三宝(さんぽう)荒神」が「三方を睥睨する荒神」と転じたかのような変わり兜です。
三宝荒神は「仏 宝 僧」の三宝を守護する神とされていますが、インドや中国には伝承はなく 仏教、道教、陰陽道、修験道、神道などが習合して生み出されたとされています。
像容は三面六臂(さんめんろっぴ)または八面六臂(はちめんろっぴ)の三面像の頭上に5つの小面を持つと知られ、頭髪は逆立ち、眼は吊り上げた憤怒の形相を呈しており、密教の明王像に共通しています。
これも上杉謙信が所用していたと伝えられ、1679年(延宝7年)、伊達氏の家臣で旧上杉家臣だった登坂家から伊達家に献上されたと伝えられています。
現在は仙台市博物館(宮城県仙台市)に収蔵されています。
我が信仰していた神様は毘沙門天と同じく、いずれも戦と相性の良い神様が多かったぞ!
信心深い謙信ならではの特徴をよく表しているよね!
上杉謙信の女性説って本当?
きっかけは、歴史小説家の八切止夫(やぎりとめお)が上杉謙信の女性説を唱えたことから始まり、1968年の読売新聞の夕刊に小説「上杉謙信は男か女か」の連載を開始したことで、世間に広まりました。
八切氏は上杉謙信の女性説についていくつかの根拠を挙げてるよ!
八切氏がスペイン内戦の際に使用されたトレドの修道院から15~16世紀頃の船乗りや宣教師が当時の日本の様子について記した報告書を発見します。その中にゴンザレスという船乗りが国王に提出したとされる1571年から1580年にかけての佐渡金山に関する報告書が見つかり、その内容から「上杉景勝の叔母」という言葉を見つけたと主張しています。
また、「叔母が開発した佐渡金山を所有していた」との記載もあり、叔母にあたる人物こそが上杉謙信であり、女性説を裏付けると主張しています
謙信の死因は「大虫」どういう婦人病だったとの主張もあり、八切氏はこの「大虫」という単語が月経の隠語であると解釈していました。
また、八切氏によると当時謙信は合戦の際に原因不明の腹痛に襲われることがあり、これも生理の一環だったのでは推察されています。
また、謙信は更年期障害からくる婦人病を患ったことが死因であり、これが女性特有の現象であることから、これも女性説を裏付ける理由の一つとして挙げました。
- 民衆の間で謙信が女性であることを示唆した歌が流行していた
- 生涯不犯の誓いを立てていた
- 肖像や手紙に女性的な表現が数多くみられた
また、八切氏は謙信が男として後世に語り継がれた理由についても言及していて、当時の江戸時代では女性の大名が禁忌とされていたから、謙信の出自を隠す必要があったと主張しているよ!
根拠①上杉景勝の叔母
スペインで発見されたという文書ですが、実在していたのかすらも明らかになっておらず、現在でも現物を確認できていない為、事実確認は困難な状態でした。また、上杉氏が佐渡を所有するようになったのは謙信の死後とされており、事実と文書の内容が一致していません。
根拠②女性特有の現象
そもそも「大虫」という単語には、月経という解釈は存在しないとされています。近しいもので「おむし」という単語は月経の隠語にされていた事実がありますが、これは「蒸す」という単語を語源にしたものとされています。その為、「大虫」とは発祥が異なり、全く関係がありません。
さらに、更年期障害の悪化が直接的な死因に繋がることは現代医療ではないとされています。
その他の根拠に関して
謙信が女性であることを示唆した歌という点でも史料的根拠がなく、女性的な表現も教養の一種として要求される一般的なものとされています。また、生涯不犯についても実際に女性との関係があった事を示唆する話が残っています。
結論
よって、八切氏が挙げたいくつかの根拠はそのほとんどが史料的裏付けが乏しく、一方で女性説を否定する根拠に関しては史料的裏付けがあるという点から考えても、上杉謙信の女性説が真実であったとは考えにくいというのが現状での見解となっています。
上杉謙信は何で生涯独身だったの?
上杉謙信は「生涯不犯(しょうがいふぼん)」という誓いを立てていたとされるよ
仏教の言葉で、一生涯にわたって戒めを守り、男女の交わりをしないこと。「不犯」とは、主に修行中の僧侶が淫事を戒めて戒律を守る時に用いられた言葉です。
このような誓いを立てた戦国武将は当時では珍しかったぞ!
その上、禁欲生活も貫いていたから「不犯の聖将」と神格化されたこともあるみたいだね!
しかし、我みたいな一国一城の領主は跡継ぎを作ることが求められていたから、普通は妻帯を持つのが一般的であったぞ!
それなのに謙信どうして生涯不犯を貫いたんだろう?
生涯不犯を貫いた理由とは?
日本における同性愛の記録は古来に遡り、当時の戦国の世ではむしろ盛んにあったとされています。特に戦国大名が小姓を男色の対象にした例が数多く見られ、謙信も例外ではなく、実際に美少年好きで側に小姓ら男性たちを侍らせ、時には交わっていたとする主張も挙がっています。
謙信が深く信仰していたとされる仏教の教え「不邪淫」を守ったという説があります。関係している江戸時代の軍記物「越後軍記」によれば、色欲を軍神への帰依を理由に拒んでいたと記されており、信仰の厚い謙信は自らに女人禁制を強いていたとされています。
謙信は林泉寺に入門して出家し、住職の「天室光育(てんしつこういく)」の元で修行していたとされており、また女人禁制として知られる高尾山に登り、「胤清(せいいん)」にも弟子入りしたとされています。
『上杉年譜』によれば、もともと謙信は正統な後継者ではなく、兄である前当主の晴景の成長するまでの「中継ぎ」当主だったと紹介されています。謙信はその誓いを守るべく、妻帯して実子を産めば当主交代が難しくなると判断し、生涯不犯を実行したというものです。
また、この誓いを守るため、謙信は仏教の教えをもちだして、自身の論理を正当化したという指摘もされています。
①「同性愛者」説
裏付ける史料は見つかっていないです。
②「宗教戒律」説
「越後軍記」は後世の二次史料に過ぎず、加えて「不邪淫」以外の戒律はほとんど破っていることから、あくまで戒律は題目であったという見方があります。
その一つとして、謙信の言う「生涯不犯」とは未婚でいるという意味であり、異性との肉体関係を一切拒絶するという意味ではなかったという説があります。
その根拠として、謙信は上洛時に山科の遊郭に遊びに出かけた逸話など、女性との関係があった事を示唆する話が見られています。
しかし、本来不犯の本来の意味は「邪淫戒(じゃいんかい)を守り、異性と交わってはならない」であり、邪淫戒とは五戒(ごかい)という仏教の信者が守らねばならない最も基本的な5つの契約の1つで「夫婦以外と交わってはならない」という意味でもあります。
そのため「生涯不犯を貫いた」ということであれば、生涯未婚の謙信は「生涯異性と交わっていない」ということになります。
また、林泉寺住職の天室光育から教育を受けていたことを示す謙信の手紙は残されていますが、出家そのものを裏付ける一次史料はなく、天室光育は春日山城の麓にある、長尾家の菩提寺である林泉寺の住職とともに春日山城での教育係を任せられていたとも考えられています。
高野山登山に関しては、高野山側の記録では、登山時期が天正2年(1574年)に行われた謙信の関東出兵時と重なっており、記述自体が疑わしいとされています。また、清胤に高野山で師事したという一時史料もありません。
⓷「名代家督」説
3つの説の中では最も有力ですが、確実な根拠がありません。
今でも真相は謎みたいだよ!
上杉謙信の死因は何?
まずは彼の傷病歴からを見てみよう!
1537年(天文6年) | 7歳に時に河中に落ちて左の膝を激しく打つ |
1543年(天文12年) | 刈谷田川で長尾俊景と戦闘した際に、左の内股に矢傷を受け、大きな傷痕を残す。 |
1559年(永禄2年)6月 | 二度目の上洛中に腫れ物を患う。腫物医の診断によると癰(よう)という重度のおできで、気血の滞留が病因と診られた。背中に出来た腫れ物を家臣たちが口で吸い出して治療にあたり、ほどなく治癒したと伝わる。 |
1561年(永禄4年) | 関東遠征中に腹痛を患っている。 |
1561~1562年(永禄4~5年) | 左脚が気腫になり、歩く時に引きずる様子が見られた。戦場では杖代わりに三尺ばかりの青竹を引っ提げて、軍兵を指揮したとされる。 |
1565年(永禄8年) | 36歳の時、瘧(おこり)という熱病に罹る。卒去したとの流言蜚語が乱れ飛んだ。また、左脚が不自由になったのは、この際に併発した急性関節炎によるものとする説もある。 |
1570年(元亀元年)10月 | 41歳の時に軽い中風(ちゅうふう:現在の脳卒中)を発症。 |
1578年(天正6年) | 春日山城内の厠で倒れ、その後も意識回復せず、享年49歳で死去 |
死因については諸説あるみたいだよ!
生前の謙信は大の酒好きだったことで知られ、過度の飲酒や食生活では塩分の摂り過ぎなどによる糖尿病性高血圧が原因の「脳血管障害」(=脳卒中)と見られています。謙信の史料を見た医師たちの所見も、「高血圧症、糖尿病、アルコール依存症、躁鬱気質」だったとする見解が多いです。
または、胃癌もしくは食道癌と脳卒中が併発したとする説もあります。
「虫気」とは寄生虫の感染により、体内の器官が正常に動作しなくなる感染症の一つと考えられています。実際に、謙信の病床に立ち会った景勝は、手紙で謙信が虫気であったと書き残しています。当時はまだ細菌への認識も甘かったと考えられ、史料もあることから可能性としては十分考えられます。
また、書状にある「虫気」は「ちゅうき」でなく「むしけ」すなわち重い腹痛のことを指しており、急性膵炎や腹部大動脈瘤(破裂)などが死因の可能性であるとも推論されています。
しかし、他の研究では当時「虫気」だとされた病気の大半は脳内の病であり、現代のようにCTなどの最新医療技術が発達していなかったために、脳内の病がすべて虫気として考えられていたという指摘もあります。
脳卒中は既往にもあったぞ!生前では脚をよく引きづっていたものだ!
もし虫気が脳内の病気全般を指すなら、脳卒中もその中に含まれるね!また、生前によくお酒を飲んでいたことから考えても脳卒中説は十分濃厚だね!
「信長の野望」武将能力値比較から見た評価
軍事面の能力は全武将の中でも圧倒的で正に公式チート。信長の野望全シリーズを通して「最強」の地位に君臨している。
統率 | 武勇 | 知略 | 政治 | 教養 | 魅力 | 野望 | 順位 | 偏差値 | |
戦国群雄伝 | - | 100 | - | 89 | - | 95 | 67 | 10/408 | 70.3 |
武将風雲録 | - | 100 | - | 67 | 80 | 91 | 15 | 68/507 | 61.2 |
覇王伝 | 99 | 100 | 52 | 69 | - | - | 13 | 116/998 | 61.2 |
天翔記 | - | 100 | 60 | 72 | - | 96 | 75 | 35/1300 | 73.5 |
将星録 | - | 100 | 72 | 70 | - | - | - | 43/700 | 66.9 |
烈風伝 | 100 | 98 | 63 | 64 | - | - | - | 17/900 | 73.4 |
嵐世記 | 125 | - | 57 | 57 | - | - | 74 | 57/1686 | 74.2 |
蒼天録 | 90 | - | 54 | 55 | - | - | - | 123/1900 | 66.3 |
天下創世 | 90 | - | 72 | 54 | - | - | - | 37/1100 | 72.1 |
革新 | 120 | 105 | 74 | 54 | - | - | - | 16/1218 | 75.0 |
天道 | 120 | 105 | 66 | 62 | - | - | - | 18/1328 | 74.5 |
創造 | 98 | 100 | 83 | 62 | - | - | - | 19/1258 | 76.1 |
統率 | 武勇 | 知略 | 内政 | 外政 | 順位 | 偏差値 | |||
大志 | 98 | 100 | 83 | 61 | 73 | - | - | 42/2191 | - |
統率 | 武勇 | 智謀 | 内政 | 外交 | 魅力 | 野心 | 順位 | 順位 | |
太閤 | 100 | 100 | - | 91 | 78 | 99 | 21 | 12/713 | 78.1 |
太閤Ⅱ | 98 | 100 | - | 64 | 68 | 99 | - | 10/695 | 74.6 |
太閤Ⅲ | 100 | - | - | 9 | 7 | 100 | - | 10/236 | 66.2 |
太閤Ⅳ | 100 | 90 | - | 64 | 63 | 93 | - | 18/605 | 71.0 |
太閤Ⅴ | 100 | 90 | 79 | 63 | - | 92 | - | 12/800 | 75.3 |